・・・ それは無いじゃないが、モデルはほんの参考で、引写しにはせん。いきなりモデルを見附けてこいつは面白いというようなのでは勿論無い。そうじゃなくて、自分の頭に、当時の日本の青年男女の傾向をぼんやりと抽象的に有っていて、それを具体化して行くには、・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。 ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・己と身の周囲の物とが一しょに織り交ぜられた事は無い。周囲の物に心を委ねて我を忘れた事は無い。果ては人と人とが物を受け取ったり、物を遣ったりしているのに、己はそれを余所に見て、唖や聾のような心でいたのだ。己はついぞ可哀らしい唇から誠の生命の酒・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・要するに健康な人は死などという事を考える必要も無く、又暇も無いので、唯夢中になって稼ぐとか遊ぶとかしているのであろう。 余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に・・・ 正岡子規 「死後」
・・・あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。大堰の水もまるで四寸ぐらいしかない。夕方になってやっといままでの分へ一わたり水がかかった。 三時ごろ水がさっぱり来なくなったからどうしたのかと思って大堰の下・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ そんなにあるのに無いって私をだますのか、ほら、ほら! ああ、蓮だらけだよう!」と、彼女はおいおい泣いて亭主にかじりついた。――これが気違いになり始めだと云う噂であった。村へ帰って来ても発狂は治らなかった。然し、何かひどく工合よい機械の・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・啻に故の我なるのみでは無い、予はその後も学んでいて、その進歩は破鼈の行くが如きながらも、一日を過ぎれば一日の長を得て居る。予は私に信ずる。今この陬邑に在って予を見るものは、必ずや怨えんたい不平の音の我口から出ぬを知るであろう。予は心身共に健・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・ユリアが警部にこう云ったのは無理も無い。あんなやくざもののツァウォツキイを、死んだあとになってまで可哀く思うのは、実に怪しからん事である。さて葬いのあった翌日からは、ユリアは子供の着物を縫いはじめた。もう一月で子供が生れることになっていたか・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「ええがも無いやないか。お前たちまちどこへ寝せるつもりや。食わす位ならまだ我慢もしよが、どんと寝附かれて動きもこじりも出来んようになったらどうするぞ!」「抛っといたらええってば。」「抛っといてそれで済むもんならええわさ。それより・・・ 横光利一 「南北」
・・・髭は無い。口は唇が狭く、渋い表情をしているが、それでも冷酷なようには見えない。歯は白く光っている。 己の鑑定では五十歳位に見える。 下宿には大きい庭があって、それがすぐに海に接している。カツテガツトの波が岸を打っている。そこを散歩し・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫