・・・けれどもそこは小児の思慮も足らなければ意地も弱いので、食物を用意しなかったため絶頂までの半分も行かぬ中に腹は減って来る気は萎えて来る、路はもとより人跡絶えているところを大概の「勘」で歩くのであるから、忍耐に忍耐しきれなくなって怖くもなって来・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 四肢萎えて、起きあがることさえ容易でなかった。渾身のちからで、起き直り、木の幹に結びつけた兵古帯をほどいて首からはずし、水たまりの中にあぐらをかいて、あたりをそっと見廻した。かず枝の姿は、無かった。 這いまわって、かず枝を捜した。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・長い道中のために両脚が萎えてかたわになっていたのである。歩卒ふたり左右からさしはさみ助けて、榻につかせた。 シロオテのさかやきは伸びていた。薩州の国守からもらった茶色の綿入れ着物を着ていたけれど、寒そうであった。座につくと、静かに右手で・・・ 太宰治 「地球図」
・・・おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・他の生産部門にたいして、とくに社会を皮相からみたときには、いつもそれだけが支配力をもつような政治・経済の力に抗して、文学の独特な価値を肯かせようとして、ほかの仕事とは違う、違うと、ますます手足の萎えた状態に自身を追いこんだ。勤労階級と、文学・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・にひきずられて、天性の重厚のままにとりかえしのつかないほど歪み萎えさせられたところにある。 森鴎外にしろ、夏目漱石にしろ、荷風にしろ、当時の社会環境との対決において自分のうちにある日本的なものとヨーロッパ的なものとの対立にくるしんだ例は・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・ 日本の文学が、今日そういう足の萎えた状態にあることは、まったく日本の明治文化の本質の照りかえしである。明治維新は、日本において人権を確立するだけの力がなかった。ヨーロッパの近代文化が確立した個人、個性の発展性の可能は、明治を経て今日ま・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・空想は重く、思惟は萎えてただ 只管のアンティシペーションが内へ 内へ肉芽を養う胚乳の溶解のように融け入るのだ。 L、F、H子供らしい真剣で白紙の上に私は貴方の名と自分の名とを書きました。・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ それが歪んだ人間の使いかたであるからと云って、その歪みを生き身にうけて、云って見れば自分たちの肉体で歴史の歪みをためてゆかなければならない私たち現代の女が、歪みのままに自分の気持を萎えさせて、どうせ、と云ってしまったら、どこから自分た・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・されど ときには 指もたゆく心もなえて 足もとを見るあわれ わが井戸の 小車いつも いつも くるめくと。くるめく 井戸の小車天をうつす 底ひの 水滾々と湧き満ち ささやかになり われを待つ。 ・・・ 宮本百合子 「五月の空」
出典:青空文庫