・・・もう一人はやや黄ばみかけた、長い口髭をはやしている。 そのうちに二十前後の支那人は帳簿へペンを走らせながら、目も挙げずに彼へ話しかけた。「アアル・ユウ・ミスタア・ヘンリイ・バレット・アアント・ユウ?」 半三郎はびっくりした。が、・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ほら、八幡前に永井って本屋があるでしょう? あすこの女の子が轢かれる所だったんです。」「その子供は助かったんだね?」「ええ、あすこに泣いているのがそうです。」「あすこ」というのは踏切りの向う側にいる人だかりだった。なるほど、そこ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。当時は水泳協会も芦の茂った中洲から安田の屋敷前へ移っていた。僕はそこへ二、三人の同級の友達と通って行った。清水昌彦もその一人だった。・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・部屋は根津界隈を見晴らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思う。その頃の先生は面の色日に焼け、如何にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云う堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に充ち満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。「もう着くぞ」 父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服の襟が首から離・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々荒らかになった。 執着の強い笠井も立なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒った風も見せずに坂を下りて行った。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
この犬は名を附けて人に呼ばれたことはない。永い冬の間、何処にどうして居るか、何を食べて居るか、誰も知らぬ。暖かそうな小屋に近づけば、其処に飼われて居る犬が、これも同じように饑渇に困められては居ながら、その家の飼犬だというの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・B 気長い事を言うなあ。君は元来性急な男だったがなあ。A あまり性急だったお蔭で気長になったのだ。B 悟ったね。A 絶望したのだ。B しかしとにかく今の我々の言葉が五とか七とかいう調子を失ってるのは事実じゃないか。A・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・お濠ン許で、長い尻尾で、あの、目が光って、私、私を睨んで、恐かったの。」 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋めた。 また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。「おお、そうかい、夢なんですよ。」「恐か・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・三角形に畝をなした、十六角豆の手も高く、長い長いさやが千筋に垂れさがっている。家におった昔、何かにつけて遊んだ千菜畑は、雑然として昔ながらの夏のさまで、何ともいいようなくなつかしい。 堀形をした細長い田に、打ち渡した丸木橋を、車夫が子ど・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
出典:青空文庫