・・・と詠み、鳥啼けば「鳥啼く」と詠み、螽飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香に匂ふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、見もせぬに遠き名所・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・「あのね、すぐなくなるって。地図に入れなくてもいいって。あんなもの地図に入れたり消したりしていたら、陸地測量部など百あっても足りないって。おや! 引っくりかえってらあ」「たったいま倒れたんだ」歩哨は少しきまり悪そうに言いました。・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・ するとそのひばりの子供は、いよいよびっくりして、黄色なくちばしを大きくあけて、まるでホモイのお耳もつんぼになるくらい鳴くのです。 ホモイはあわてて一生けん命、あとあしで水をけりました。そして、 「大丈夫さ、 大丈夫さ」と言いな・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。 愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私たちがわれとわが身をだましてゆくことを、はっきり拒絶したいと思います。愛が聖らかであるなら、それは・・・ 宮本百合子 「愛」
病みあがりの髪は妙にねばりが強くなって、何ぞと云ってはすぐこんぐらかる。 昨日、気分が悪くてとかさなかったので今日は泣く様な思いをする。 櫛の歯が引っかかる処を少し力を入れて引くとゾロゾロゾロゾロと細い髪が抜けて来・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・牛のすぐ後ろへ続いて、妻が大きな手籠をさげて牛の尻を葉のついたままの生の木枝で鞭打きながら往く、手籠の内から雛鶏の頭か、さなくば家鴨の頭がのぞいている。これらの女はみな男よりも小股で早足に歩む、その凋れたまっすぐな体躯を薄い小さなショールで・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 木村は為事をするのに、差当りしなくてはならない事と、暇のある度にする事とを別けている。一つの机の上を綺麗に空虚にして置いて、その上へその折々の急ぐ為事を持って行く。そしてその急ぐ為事が片付くと、すぐに今一つの机の上に載せてある物をその・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ただ暖かい野の朝、雲雀が飛び立って鳴くように、冷たい草叢の夕、こおろぎが忍びやかに鳴く様に、ここへ来てハルロオと呼ぶのである。しかし木精の答えてくれるのが嬉しい。木精に答えて貰うために呼ぶのではない。呼べば答えるのが当り前である。日の明るく・・・ 森鴎外 「木精」
これは小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入らせたり、また老いて疲れた親を持った孝行者がその親を寝入らせたりするのにちょうどよい話である。途中でやめずにゆっくり話さなくてはいけない。初めは本当の事のように活溌な調子で話すが・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 色の蒼ざめた、小さい女房は独りで泣くことをも憚った。それは亭主に泣いてはならぬと云われたからである。女と云うものは涙をこらえることの出来るものである。 翌日は朝から晩まで、亭主が女房の事を思い、女房が亭主の事を思っている。そのくせ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫