・・・一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、髯の褐色なのが、重くろしい靴を上げて材木をこづいた。鴉のやはり動かずに止まっていた材木である。鴉は羽ばたきもせず、頭も上げ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それをウイリイが玩具にして、しまいにどこかへなくして来ました。 ウイリイはだんだんに、力の強い大きな子になって、父親の畠仕事を手伝いました。 或ときウイリイが、こやしを車につんでいますと、その中から、まっ赤にさびついた、小さな鍵が出・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・まさかお前さんがそんなことを思うだろうとは、わたし思わなくってよ。それはわたしが途中から出てあの座に雇われたのだから、お前さんの方でわたしを撃つのなら、理屈があるわね。お前さんだって、わたしがあの地位に坐ったのを怨まないわけにはいかないでし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・「どうして雲雀は海の上なんぞで鳴くんでしょう」 と子どもが聞きました。「海があんまり緑ですから、雲雀は野原だと思っているんでしょう」 とおかあさんは説き明かしました。 とたちまち霧は消えてしまって、空は紺青に澄みわたって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・でないと夏分のお客さんは水にこまるし、あのかわいそうな奥さんと子ども衆もいなくなってしまいますからね」 と言いました。 で鳩は今度は海岸に飛んで行きました。そこではさきほどの百姓の兄弟にあたる人が引き網をしていました。鳩は蘆の中にと・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・彼は、スバーが自分の不具を悲しんで泣くとは知らず此ほかの解釈を、その涙に対して下そうともしませんでした。 終に暦が調べられ、結婚の儀式は吉日を選んで行われました。 娘の唖な事を隠して他人の手に引渡して、スバーの両親は故郷に帰って仕舞・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・生れ落るとから、唇の戦きほか言葉を持たずに来たものは、表し方に限りがなく、海のように深く、曙、黄昏が光りや影を写す天のように澄んだ眼の言語をならいました。唖は、自然が持っているような、寂しい壮麗さを持っているのです。其故、他の子供達は、スバ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、謂わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところか・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・ ――また、泣く。おまえは、いつでも、その手を用いた。だが、もう、だめさ。私は、いま、万事が、おのぞみどおりなのだからね。どこかで、お茶でも飲むか。 ――だめ。あたし、いま、はっきり、わかったわ。あなたと、あたしは、他人なのね。いい・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫