・・・妻がそれをわたすまでには二、三度横面をなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがてぶらりと小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけの丼に入れて見たり、出して見たり、親指で空に弾き上げたりしながら市街地の方に出懸け・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・とも子 ええ、たしか二度なぐられてよ。戸部 それでも、俺のところに来る気か。とも子 行きます。その代わり、こんどこそはなぐられてばかりいないわ。瀬古 夫婦喧嘩の仲裁なら僕がしてやるよ。戸部 よけいな世話だ。とも・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・第一なぐられかねない。見ずや、きみ、やかなの鋭き匕首をもって、骨を削り、肉を裂いて、人性の機微を剔き、十七文字で、大自然の深奥を衝こうという意気込の、先輩ならびに友人に対して済まぬ。憚り多い処から、「俳」を「杯」に改めた。が、一盞献ずるほど・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・これを見た若者は、あまりのことに思って、「なぐらなくてもいいでしょう。口笛を吹いて、鳥を呼んだことと、火事や、泥棒とが、なんの関係があるのですか? おおぜいで、こんな子供をいじめるなんてまちがってはいませんか。」と、若者は、彼らの乱暴を・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ と、亀吉はなぐられた頬を押えながら、豹吉に言った。「何が殺生や……?」「そうかテお前、折角掏ったもんを、返しに行け――テ、そンナン無茶やぜ」「おい、亀公、お前良心ないのンか」 豹吉は豹吉らしくないことを言った。「な・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 見る間に付近に散在していた土方が集まって来て、車夫はなぐられるだけなぐられ、その上交番に引きずって行かれた。 虫の息の親父は戸板に乗せられて、親方と仲間の土方二人と、気抜けのしたような弁公とに送られて家に帰った。それが五時五分であ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・誰かが向うでなぐられた。ボクン! 直接に肉が打たれる音がした。 この時親分が馬でやってきた。二、三人の棒頭にピストルを渡すと、すぐ逃亡者を追いかけるように言った。「ばかなことをしたもんだ」 誰だろう? すぐつかまる。そしたらまた・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・原稿もそろそろ売れて来るようになったので、書きなぐらないように書きためて大きい雑誌に送ること重要事項である。君は世評を気にするから急に淋しくなったりするのかもしれない。押し強くなくては自滅する。春になったら房州南方に移住して、漁師の生活など・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・父は家へ帰る途中、なぐられやしなかったか、と一言そっと私にたずねたきりで、他にはなんにも言いませんでした。 その日の夕刊を見て、私は顔を、耳まで赤くしました。私のことが出ていたのでございます。万引にも三分の理、変質の左翼少女滔々と美辞麗・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・片方は糸で修繕した鉄ぶちの眼がねをかけ、スナップ三つあまくなった革のカバンを膝に乗せ、電車で、多少の猫背つかって、二日すらない顎の下のひげを手さぐり雨の巷を、ぼんやり見ている。なぐられて、やかれて、いまはくろがねの冷酷を内にひそめて、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫