・・・ だまってなさい!」 無心の子供を母親がたしなめていた。 井村は、自分にむけられた三本脚の松ツァンの焦燥にギョロ/\光った視線にハッとした。「うちの市三、別条なかったか。」 市三は、影も形も彼の眼に這入らなかった。井村は、眼・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞんざいに挨拶して迎えた。ぞんざいというと非難するよう・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・殿「何だえ……御覧なさい、あの通りで……これ誰か七兵衞に浪々酌をしてやれ、膳を早く……まア/\これへ……えゝ此の御方は下谷の金田様だ、存じているか、これから御贔屓になってお屋敷へ出んければ成らん」金田「予て噂には聞いていたが未だしみ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・「叔父さん、ごめんなさいよ。」 と言って、姪は幾人もの子供を生んだことのある乳房を小さなものにふくませながら話した。そんなにこの人は気の置けない道づれだ。「そう言えば、太郎さんの家でも、屋号をつけたよ。」と、私は姪に言ってみせた・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイリイさんが十四になるまで、しまっておいてお上げなさい。十四になったら、私がいいものをお祝いに上げます。それへこの鍵がちゃんとはまるのですから。」と言・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・「いい子だからこらえられるだけこらえてごらんなさい。あちらに着きさえすれば水をあげますからね」 とおかあさんは言いながら、赤ん坊のようなかわいたその子の口をすうてやりますと、子どもはかわきもわすれてほおえみました。 でも日は照り・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ ああ、考えても御覧なさい。若しスバーが水のニムフであったなら、彼女は、蛇の冠についている宝玉を持って埠頭へと、静かに川から現れたでしょうに、そうなると、プラタプは詰らない釣などは止めてしまい、水の世界へ泳ぎ入って、銀の御殿の黄金作りの・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ およしなさいよ、いいとしをして、みっともない。きらわれますよ。朝、寝たまま足袋をはかせてもらったりして。 ――神聖な家庭に、けちをつけちゃ、こまるね。私は、いま、仕合せなんだからね。すべてが、うまくいっている。 ――そうして、やっ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・「これは、あなた、どうなさいましたのですか。御気分でもお悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」 おれは身を旋らしてその男を見た。おれの前に立っているのは、肥満した、赤い顔の独逸人である。こないだ電車から飛び下りて・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。 妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙の更紗模様をボンヤリ見詰めて何か・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫