・・・桂月香は八千の妓生のうちにも並ぶもののない麗人である。が、国を憂うる心は髪に挿したまいかいの花と共に、一日も忘れたと云うことはない。その明眸は笑っている時さえ、いつも長い睫毛のかげにもの悲しい光りをやどしている。 ある冬の夜、行長は桂月・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・ 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆を思え。 時に、継母の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上常識的なものであった。「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」「いいえ、貴方。」 判然した優しい・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・その上に、惜むべし杉の酒林の落ちて転んだのが見える、傍がすぐ空地の、草の上へ、赤い子供の四人が出て、きちんと並ぶと、緋の法衣の脊高が、枯れた杉の木の揺ぐごとく、すくすくと通るに従って、一列に直って、裏の山へ、夏草の径を縫って行く――この時だ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ さりながらかかる太平楽を並ぶるも、山の手ながら東京に棲むおかげなり。奥州……花巻より十余里の路上には、立場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚し。 と言われたる、遠野郷に・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ 腹が空くと、電信の針がねに一座ずらりと出て、ぽちぽちぽちと中空高く順に並ぶ。中でも音頭取が、電柱の頂辺に一羽留って、チイと鳴く。これを合図に、一斉にチイと鳴出す。――塀と枇杷の樹の間に当って。で御飯をくれろと、催促をするのである。・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・おとよさんは絶対に自分の夫と並ぶをきらって、省作と並ぶ。なんといってもこの場では省作が花役者だ。何事にも穏やかな省作も、こう並んで刈り始めて見ると負けるは残念な気になって、一生懸命に顔を火のようにして刈っている。満蔵はもうひとりで唄を歌って・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・が、富は界隈に並ぶ者なく、妻は若くして美くしく、財福艶福が一時に集まったが、半世の奮闘の労れは功成り意満つると共に俄に健康の衰えを来した。加うるに艶妻が祟をなして二人の娘を挙げると間もなく歿したが、若い美くしい寡婦は賢にして能く婦道を守って・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 兄さんや、姉さんたちは、果物の季節になると、いろいろおいしそうな、果物が、店頭に並ぶのを見てきて話をしました。「晩に、勇ちゃんが休んでから、買ってきておたべなさい。」と、お母さんは、おっしゃったのであります。 ところが、ある日・・・ 小川未明 「お母さんはえらいな」
・・・ことに命令されたことをテキパキ実行できないというへまさ加減では、この二人に並ぶ者はない。おまけに兵隊にあるまじいことには、兵隊につきものの厚かましさが欠けていた。 このような二人には、だから鶏の徴発は頗るむずかしかった。が、よしんば二人・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫