・・・耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。自分は山の手の書斎の沈静し・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・とした赤行燈を出し、葭簀で囲いをした居酒屋から、※を焼く匂いがしている。溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や柾木のような植木の鉢が数知れず置並べてある。 ここまでは、一人も人に逢わなかったが、板塀の彼方に奉納・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・しばらくして君とわれの間にあまれる一尋余りは、真中より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒めたり。醒めたるあとにもなお耳を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・least poor とは物匂い形容詞だ。或る公園で男女二人連があれは支那人だいや日本人だと争っていたのを聞た事がある。二三日前さる所へ呼ばれてシルクハットにフロックで出かけたら、向うから来た二人の職工みたような者が a handsome ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂い、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・低い天井と床板と、四方の壁とより外には何にも無いようなガランとした、湿っぽくて、黴臭い部屋であった。室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯っていた。リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・潮の匂いが清々しかった。次には、浚渫船で蒸汽を上げるのに、ウント放り込んだ石炭が、そのまま熔けたような濃い烟になって、私の鼻っ面を掠めた。 それは、総て健康な、清々しい情景であり、且つ「朝」の溌溂さを持っていた。 船体の動揺の刹那ま・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い出した。この記念があんまりはっきりしているので、三十三歳の世慣れ切った小説家の胸が、たしかに高等学校時代の青・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・素人臭い句ではあるが「酒載せて」の句よりは善いようだ。これほど考えて見ながら運坐の句よりも悪いとは余り残念だからまた考えはじめた。この時験温器を挟んで居る事を思い出したから、出して見たが卅八度しかなかった。 今度は川の岸の高楼に上った。・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・○くだものと香 熱帯の菓物は熱帯臭くて、寒国の菓物は冷たい匂いがする。しかし菓物の香気として昔から特に賞するのは柑類である。殊にこの香ばしい涼しい匂いは酸液から来る匂いであるから、酸味の強いものほど香気が高い。柚橙の如きはこれである。そ・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫