・・・ ところが飯を食って、本郷の歯医者へ行ったら、いきなり奥歯を一本ぬかれたのには驚いた。聞いて見ると、この歯医者の先生は、いまだかつて歯痛の経験がないのだそうである。それでなければ、とてもこんなに顔のゆがんでいる僕をつかまえて辣腕をふるえ・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・ 軍刀が引きぬかれ、老人の背後に高く振りかざされた。形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点に集中した。 老人はびく/\動いた。 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。 電線は切断されづめだった。 HとSとの連絡は始終断たれていた。 そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。 イイシへ守備中隊を出すのは、そ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・突きこんだ剣はすぐ、さっと引きぬかねば生きている肉体と血液が喰いついてぬけなくなることを彼はきいていた。が、それを思い出したのは、相手が倒れて暫らくしてからだった。彼は、人を殺したような気がしなかった。彼は、人を一人殺すのは容易に出来得るこ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・天神様や観音様にお礼を申し上げたいところだが、あのお光の場合は、ぬかよろこびであったのだし、あんな事もあるのだから、やっと百五十一枚を書き上げたくらいで、気もいそいその馬鹿騒ぎは慎しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・そうして彼らは、ぬからず、その世の中の信頼を利用している。 永遠に、私たちは、彼らよりも駄目なのである。私たちの精一ぱいの作品も、彼らの作品にくらべて、読まれたものではないのである。彼らは、その世の中の信頼に便乗し、あれは駄目だと言い、・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・頭の中で離れ離れになってなんの連絡もなかったいろいろの場所がちょうど数珠の玉を糸に連ねるように、電車線路に貫ぬかれてつながり合って来るのがちょっとおもしろかった。 学校で教わったり書物を読んだりして得た知識もやはり離れ離れになりがちなも・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ すなわち政治固有の性質にして、その働の急劇なるは事実の要用においてまぬかるべからざるものなり。その細目にいたりては、一年農作の飢饉にあえば、これを救うの術を施し、一時、商況の不景気を見れば、その回復の法をはかり、敵国外患の警を聞けばた・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・私はすっかり度胆をぬかれました。「さあどうか、お掛け下さい。」 私はこしかけました。「ええと、失礼ですがお職業はやはり学事の方ですか。」校長がたずねました。「ええ、農学校の教師です。」「本日はおやすみでいらっしゃいますか・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・なぜなら、そこに、人間的な選択、完全な結合、愛、同感、互の運命への責任等がぬかれているのだから。 人間を動物的に低める性的誇張は、ファシズムの一つの方法です。ナチスが青年男女を「わが陣営」にひきつけるためにとった方法は、いわゆる性の解放・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
出典:青空文庫