・・・ トその垣根へ乗越して、今フト差覗いた女の鼻筋の通った横顔を斜違いに、月影に映す梅の楚のごとく、大なる船の舳がぬっと見える。「まあ、可いこと!」 と嬉しそうに、なぜか仇気ない笑顔になった。 七「池があ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・袖の撓うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛り勝手がいいらしい。巌路へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺を加れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行く。・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
目の醒めるような新緑が窓の外に迫って、そよ/\と風にふるえています。私は、それにじっと見入って考えました。なんという美しい色だ。大地から、ぬっと生えた木が、こうした緑色の若芽をふく、このことばかりは太古からの変りのない現象であって、人・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・ ある日、いつものように駅前にうずくまっていると、いきなりぬっと横柄に靴を出した男がある。「へい」 と、磨きだして、ひょいとその客の顔を見上げた途端、赤井はいきなり起ち上って、手にしていたブラシで、その客の顔を撲った。かつての隊・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・いきなり窓がひらいてその灯がぬっと顔を出す。あっと声をのんだ。灯と思ったのは真赤な舌なのだ。いや火だ。口から吐き出す火だ。ぐんぐん伸びて来る。首が舌が火が……。背なかを舐めに来る。ろくろ首だ。佐伯は思わずヒーヒーと乾いた泣き声を出し、やっと・・・ 織田作之助 「道」
・・・ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟を掴んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締めあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思う存分折檻しなければ気がす・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・家庭内のどんなささやかな紛争にでも、必ず末弟は、ぬっと顔を出し、たのまれもせぬのに思案深げに審判を下して、これには、母をはじめ一家中、閉口している。いきおい末弟は、一家中から敬遠の形である。末弟には、それが不満でならない。長女は、かれのぶっ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ただ、ぬっとつっ立っている。あによめの顔には、たしかに、恐怖の色があらわれる。ここに立っているこの男は、この薄汚い中年の男は、はたしてわたしの義弟であろうか。ねえさん、ねえさんと怜悧に甘えていた、あの痩せぎすの高等学校の生徒であろうか。いや・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ご近所の叔母さんたちが、おお綺麗と言ってほめると、ここの主人が必ずぬっと部屋から出て来て、叔母さんたちに、だらし無くぺこぺこお辞儀するので、私は、とても恥ずかしかったわ。あたまが悪いんじゃないかしら。主人は、とても私を大事にしてくれるのだけ・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・私たち一向に面白くないのは、あれには、しばしば現実の女が、そのままぬっと顔を出して来るからである。頗る、高邁でない。モオパスサンは、あれほどの男であるから、それを意識していた。自分の才能を、全人格を厭悪した。作品の裏のモオパスサンの憂鬱と懊・・・ 太宰治 「女人創造」
出典:青空文庫