秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・それほど彼はこの三四ヵ月来Kにはいろ/\厄介をかけて来ていたのであった。 この三四ヵ月程の間に、彼は三四の友人から、五円程宛金を借り散らして、それが返せなかったので、すべてそういう友人の方面からは小田という人間は封じられて了って、最後に・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ でも真逆、母は知ってはいないだろう、と気強く思い返して、夢のなかの喬は「ね! お母さん!」と母を責めた。 母は弱らされていた。が、しばらくしてとうとう「そいじゃ、癒してあげよう」と言った。 二列の腫物はいつの間にか胸か・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 荻の湖の波はいと静かなり。嵐の誘う木葉舟の、島隠れ行く影もほの見ゆ。折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷の客は耳を傾けつ。 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 髭髯が雪のように白いところからそのあだ名を得たとはいうものの小さなきたならしい老人で、そのころ七十いくつとかでもすこぶる強壮なこつこつした体格であった。 この老人がその小さな丸い目を杉の杜の薄暗い陰でビカビカ輝らせて、黙って立って・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・「真実に貴下はお可哀そうですねエ」と、突然お正は頭を垂れたまま言った。「お正さん、お正さん?」「ハイ」とお正は顔を上げた。雙眼涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。「僕はね、若し彼女がお正さんのように柔和い人であったら、・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・「まさかそんなことまでもは言われも為まいけれど」 一時間立たぬうちに升屋の老人は帰って来て、「甘く行ったよ」と座に着いた。「どうも御苦労様でした」「ハイ確かに百円。渡しましたよ。験ためて下さい」と紙包を自分の前に。「・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・』『ハイ僕は非常に好きでございます。』『だれに習った、だれがお前に孟子を教えた。』『父が教えてくれました。』『そうかお前はばかな親を持ったのう。』『なぜです、失敬じゃアありませんか他人の親をむやみにばかなんて!』と僕はやっきになった。『・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・「だって先生はそう言ったじゃありませぬか。」と母親は目をすえて私の顔を見つめました。「六さんはたいへん鳥がすきであったから、そうかも知れないと私が思っただけですよ。」「ハイ、六は鳥がすきでしたよ。鳥を見ると自分の両手をこう広げて・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知ら・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫