・・・天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、凌ぎ好かった。船宿は今は取り払われた河岸で、丁度亀清の向側になっていた。多分増田屋であったかと思う。 こう云う日に目貫の位置にある船宿一軒を借切りにしたものと見えて、しかもその家は近・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・観念を忘却させ、より自我の核心を把握して構成派的力学形式をとることに於て、表現派とダダイズムは例えば今東光氏の諸作に於けるが如く、石浜金作氏の近作に於けるが如く、時間空間の観念無視のみならず一切の形式破壊に心象の交互作用を端的に投擲すること・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、・・・ 横光利一 「蠅」
・・・アメリカを征服したヨーロッパ人たちが、このアフリカの沿岸にも侵入し、侵入した限りは破壊し去ったのである。なぜか。アメリカの新しい土地が奴隷を必要としたからである。アフリカは奴隷を供給した。何百、何千の奴隷を、船荷のようにして。しかし人身売買・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
・・・現世の濁った空気の中に何の不満もなさそうに栄えている凡庸人に対しては、烈しい憎悪を感じます。安価な楽天主義は人生を毒する。魂の饑餓と欲求とは聖い光を下界に取りおろさないではやまない。人生の偉大と豊饒とは畢竟心貧しき者の上に恵まれるでしょう。・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫