・・・と、吉里は西宮をつくづく視て、うつむいて溜息を吐く。「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加す音をさせて出て行ッた。「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょう・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・神戸にはいつごろ着くんでしょう」「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」 吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥にもたれ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・かりに今日、坊間の一男子が奇言を吐くか、または講談師の席上に弁じたる一論が、偶然にも古聖賢の旨にかなうとするも、天下にその言論を信ずる者なかるべし。如何となれば、その言の尊からざるに非ざれども、徳義上にその人を信ずるに足らざればなり。 ・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・これに反して四季の歌少く、雑の歌の著く多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以なり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際より出づ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・との浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上の月薔薇羽ならす蜂あたたかに見なさるる窓をうづめて咲くさうびかな題しらず雲ならで通はぬ峰の石陰に神世のにほひ吐く草花歌会の様よめる中に・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・暫く振りで薩摩下駄を穿くんだが、非常に穿き心地がいい。足の裏の冷や冷やする心持は、なまゆるい湯婆へ冷たい足の裏をおっつけて寒がっていた時とは大違いだ。殊に麻裏草履をまず車へ持ていてもらって、あとから車夫におぶさって乗るなんどは昔の夢になった・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ 又三郎はみんなが丘の栗の木の下に着くやいなや、斯う云っていきなり形をあらわしました。けれどもみんなは、サイクルホールなんて何だか知りませんでしたから、だまっていましたら、又三郎はもどかしそうに又言いました。「サイクルホールの話、お・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・大学士はにこにこ笑い立ちどまって巻煙草を出しマッチを擦って煙を吐く。それからわざと顔をしかめごくおうように大股に岬をまわって行ったのだ。ところがどうだ名高い楢ノ木大学士が釘付けにされたように立ちどまった。・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・СССРでは昔からどんな田舎の駅でも列車の着く時間には熱湯を仕度してそれを無料で旅人に支給する習慣だ。だからしばしば見るだろう。汽車が止るとニッケル・やかんやブリキ・やかんや時には湯呑一つ持ってプラットフォームを何処へか駈けてゆく多勢の男を・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・しかし、私は弱音を吐くことは許されない。「ここへ来るとたれかにいったの?」「いいえ、こっそり畑から来ました」「――何にもありはしまいが、じゃあこちらで泊っていらっしゃい」 十六の女中は、背後を見い見い、「おらあ……雨戸し・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
出典:青空文庫