・・・きたない……掃くひまもなかったのか? フ!」 ドミトリーはこの頃見えはじめた自分の家庭の内の文化の低さに我慢出来ないように溜息した。彼は、ハンケチを出して額をなでまわした。ハンケチには香水がついている。グラフィーラは後毛をたらしたまま、・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・往き着くまでには夜に入りそうである。そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。 翌朝知県に送られて出た。きょうもきのうに変らぬ天気である。一体天台一万八千丈とは、いつ誰が測量したにしても、所詮高過ぎるようだが、とにかく虎のいる山である。道は・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・そのうちある晩風雪になって、雨戸の外では風の音がひゅうひゅうとして、庭に植えてある竹がおりおり箒で掃くように戸を摩る。十時頃に下女が茶を入れて持って来て、どうもひどい晩でございますねというような事を言って、暫くもじもじしていた。宮沢は自分が・・・ 森鴎外 「独身」
・・・それを庭に卸して穿く。がたがたいう音を聞き附けて婆あさんが出て来た。「お外套は。」「すぐ帰るからいらん。」 石田は鍛冶町を西へ真直に鳥町まで出た。そこに此間名刺を置いて歩いたとき見て置いた鳥屋がある。そこで牝鶏を一羽買って、伏籠・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・中には横着で新しそうなのを選って穿く人もある。僕はしかたがないからなるべく跡まで待っていて、残った下駄を穿いたところが、歯の斜に踏み耗らされた、随分歩きにくい下駄であった。後に聞けば、飾磨屋が履物の間違った話を聞いて、客一同に新しい駒下駄を・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首を手に取り上げ、「忍藻、和女の物思いも道理じゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻太息吐くようでは、太息のみ吐いておるようでは・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにさ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫