・・・ その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであ・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・ はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛なすりつけた、波の線が太いから、海を被いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈、比目魚には、どんよりと色が赤い。赤あかえいだ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎の意味・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・……その森、その樹立は、……春雨の煙るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも逆に生えた蓬々の髯である。 その空へ、すらすらと雁のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据って、瞬・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ それから伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯と捌けたのが烏帽子の金に裏透いて、さながら金屏風に名誉の絵師の、松風を墨で流したようで、雲も竜もそこから湧くか、と視められた。――これだけは工夫した女優の所作で、手には白金・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・宮の森を黒髪にして、ちょうど水脈の血に揺らぐのが真白な胸に当るんですね、裳は裾野をかけて、うつくしく雪に捌けましょう。―― 椿が一輪、冷くて、燃えるようなのが、すっと浮いて来ると、……浮藻――藻がまた綺麗なのです。二丈三丈、萌黄色に長く・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・浅葱の長襦袢の裏が媚かしく搦んだ白い手で、刷毛を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。 境は起つも坐るも知らず息を詰めたのである。 あわれ、着た衣は雪の下なる薄もみじで、膚の雪が、かえって薄もみじを・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・腰衣のような幅広の前掛したのが、泥絵具だらけ、青や、紅や、そのまま転がったら、楽書の獅子になりそうで、牡丹をこってりと刷毛で彩る。緋も桃色に颯と流して、ぼかす手際が鮮彩です。それから鯉の滝登り。八橋一面の杜若は、風呂屋へ進上の祝だろう。そん・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・「どうもお前さんが、そう捌けて言っておくれだと、私はなおと済まないようで……」「何がお光さんに済まねえことがあるものか、済まねえのは俺よ。だが、そんなことはまあどうでもいいとして、この後もやっぱりこれまで通り付き合っちゃくれるだろう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧く捌けないと焦りが出た。儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 晩に、どこかへ大隊長が出かけて行く、すると彼は、靴を磨き、軍服に刷毛をかけ、防寒具を揃えて、なおその上、僅か三厘ほどのびている髯をあたってやらなければならなかった。髯をあたれば、顔を洗う湯も汲んできなければならない。…… 少佐殿は・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫