・・・あれには樗牛が月夜か何かに、三保の松原の羽衣の松の下へ行って、大いに感慨悲慟するところがあった。あすこを読むと、どうも樗牛は、いい気になって流せる涙を、ふんだんに持ち合わせていたような心もちがする。あるいは持ち合わせていなくっても、文章の上・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・ それが紫に緋を襲ねた、かくのごとく盛粧された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。 諸君、私は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未だかつて一度も私ごときものに、ただ姿さへ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。「これなる松にうつくしき衣掛れり、寄りて見れば色香妙にして……」 と謡っている。木納屋の傍は菜畑で、真中に朱を輝かした柿の樹・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・媼が伸上り、じろりと視て、「天人のような婦やな、羽衣を剥け、剥け。」と言う。襟も袖も引きむしる、と白い優しい肩から脇の下まで仰向けに露われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵を空へ屈めた姿で、柔にすくんでいる。「さ、その白ッこい、膏のの・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ と支膝のまま、するすると寄る衣摺が、遠くから羽衣の音の近くように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。「どんな母さんでしょう、このお方。」 雪を欺く腕を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして熟と視た。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・――馴れない人だから、帯も、扱帯も、羽衣でもむしったように、ひき乱れて、それも男の手で脱がされたのが分ります。――薄い朱鷺色、雪輪なんですもの、どこが乳だか、長襦袢だか。――六畳だし……お藻代さんの顔の前、枕まではゆきにくい。お信が、ぼうと・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかったのでございますが、胸に思いがいっぱい籠っているためか、おかみさんから何かおあがりと勧められても、いいえ沢山と申しまして、そうしてただもう、くるくると羽衣一まいを纏って舞っているように身軽く・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・』 若子さんが眼で教えて下さったので、其方を見ましたら、容色の美しい、花月巻に羽衣肩掛の方が可怖い眼をして何処を見るともなく睨んで居らしッたの。それは可怖い目、見る物を何でも呪って居らッしゃるんじゃないかと思う位でした。 私も覚えず・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・の退屈さに苦しんで、地獄を語り合うときばかりは蓮の台に居並ぶ老夫婦の眼に輝きが添う姿、「羽衣」をかたに天女を妻とした伯龍が、女の天人性に悩まされて、三ヵ月の契約をこちらから辞そうとしたら「天に偽りなきものを」と居つづけられて、つよい神経衰弱・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・むかし話に漁師伯龍とその妻となった三保の松原の天女の物語があって、それを大正の時代に菊池寛が「羽衣」という短篇に書いた。天女を妻とした漁師伯龍は元来女たらしであったのだが、天女を妻として十日ほどは彼も大満悦であった。天女は美しくて、彼の肉情・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
出典:青空文庫