・・・母までが端近に出て来てみんなの話にばつを合わせる。省作がよく働きさえすれば母は家のものに肩身が広くいつでも愉快なのだ。慈愛の親に孝をするはわけのないものである。「今日明日とみっちり刈れば明後日は早じまいの刈り上げになる。刈り上げの祝いは・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・万年博士が『天網島』を持って来て、「さんじやうばつからうんころとつころ」とは何の事だと質問した時は、有繋の緑雨も閉口して兜を抜いで降参した。その頃の若い学士たちの馬鹿々々しい質問や楽屋落や内緒咄の剔抉きが後の『おぼえ帳』や『控え帳』の材料と・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 曖昧に断りながら、ばつのわるい顔をもて余して、ふと女の顔を見ると、女は変に塩垂れて、にわかに皺がふえたような表情だった故、私はますます弱点を押さえられた男の位置に坐ってしまった。莫迦莫迦しいことだが、弁解しても始まらぬと、思った。男の・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・それでないと、大将は王女をとりかえさないで空手でかえって来たばつに、きっとくびをきられるにきまっていました。 王さまは、王女のお婿さんがそういう立派な王子だったと聞くと、おおよろこびで、すぐにおともをつれて、王子のところへ出ていらっしゃ・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・少々ばつは悪かったようなものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好くようにしたいと思っている・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 彼女は、少しばつの悪い様子をして、たたんである橄欖色の布を出した。「裏になるだろうからいやでなかったらあげるわ。元カーテンに使ってあったから片側は、はげているところもあるんだけれど」 千代は、同じ愁わしげな眼差しでその青い布を・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・一年の先生が日頃の親友に向って、無いんですって、と云ったそのうどんであったというのは互にとって何たるばつのわるいことであったろう。きっと、無いんですって、とさえ云ったのでなかったら、先生が生徒の親の店へ物の融通を云いつけるのはその社会で例の・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
・・・これは心ある日本人をして 何となくばつの悪い思いをさせた。日本の戦災の跡が、どんな満足すべきものをもっているだろう ヴェルダンの戦跡には 戦化が様式化されている、殺戮と破壊の悲劇が芸術的手法で形を与えられている。惨苦がパセティックという感情・・・ 宮本百合子 「観光について」
・・・本当にね、どうしたんだろうと子供の母親も考えていたが、何かに思い当ったようなばつのわるい表情になり、目にとまらないほど顔を赧らめた。そして誰にともなく、余りいつも負けるのは支那の兵隊さんときめて遊んだりばっかりしているからなんだわ、きっと、・・・ 宮本百合子 「くちなし」
・・・徳川時代のとおり、ご無理ごもっともと、ばつを合わせつつ、今日私たちの面している物質と精神の破壊にまで追われてきたのであった。 この時期、人々はできるだけ自分というものを目立たせないように努力した。個性や性格をきわだたせることさえおそれた・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
出典:青空文庫