・・・中にも硝子窓は塵がいやが上に積もっていて、硝子というものの透き徹る性質を全く失っているのだから、紙を張る必要はない。それに紙が張ってあるのは、おおかた硝子を張った当座、まだ透き徹って見えた頃に発明の才のある役人がさせた事だろう。 この広・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようなら・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・といい罵るものもありましたが、また元の奥様を知っていた人から、すぐに聞たッて、一々ほんとうだといい張る者さえあったんです。その話というはこうなんです。 人の知らない遠い片田舎に、今の奥さまが、まだ新嫁でいらしッたころ、一人の緑子を形見に・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・我を張るのは自己を殺すことであった。自己を愛において完全に生かせるためには、私はまだまだ愛の悩み主我心の苦しみを――愛し得ざる悲しみを――感じていなくてはならない。 しかし私はこの愛の理想のゆえに一つの「人間」の姿を描きたいと思う。主我・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫