・・・その田舎の女とはどんな物かと申しますと、恋の実体を夫婦と云う事から引き放して考えることの出来ない女だと申すのでございます。これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そこで草臥た高慢の中にある騙された耳目は得べき物を得る時無く、己はこの部屋にこの町に辛抱して引き籠っているのだ。世間の者は己を省みないのが癖になって、己を平凡な奴だと思っているのだ。(家来来て桜実一皿を机の上に置き、バルコンの戸を鎖戸はまあ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・例えば万葉時代には実地より出でたる恋歌の著しく多きに引きかえ『曙覧集』には恋歌は全くなくして、親を懐い子を悼み時を歎くの歌などがかえって多きがごとし。 曙覧の歌、四になる女の子を失いてきのふまで吾衣手にとりすがり父よ父よといひて・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・(いいとも、いいとも、確かにおれが引き取そのとき次々に雁が地面に落ちて来て燃えました。大人もあれば美しい瓔珞をかけた女子もございました。その女子はまっかな焔に燃えながら、手をあのおしまいの子にのばし、子供は泣いてそのまわりをはせめぐったと申・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 霞は人の心を引きくるめて沙婆のまんなかへつれて来る。霧は禁慾的な、隠遁的な気分に満ちて居る。 私は今の処は霧の方を好いて居る。 冷静な頭に折々はなりたいと思うからだ。 霧の立ちこめた中に只一人立って、足元にのびて居る自分の・・・ 宮本百合子 「秋霧」
・・・よきにつけあしきにつけ主動的であり、積極的である男心に添うて、娘としては親のために、嫁いでは良人のために、老いては子のために自分の悲喜を殺し、あきらめてゆかねばならない女心の悶えというものを、近松は色彩濃やかなさまざまのシチュエーションの中・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・その人が自分の社会的・階級的人生を発見したからこそ、そこにおこるすべてのことの人間らしい美醜、悲喜の歴史的意味を知り、自分をもある時代の階級的人間の一典型として、客観的に描き出してゆく歓喜を理解するのである。 わたしたちの人生と文学の偶・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・もう六十歳に近づいて、妻として母として重ねたかずかずの悲喜の経験とますます暗い雲に光を遮られた時代に生きる人々への情熱とで、ケーテは「戦争」「勤労する人々」を創った。五十七歳の時のケーテの自画像には、しずかな老婦人の顔立のうちに、刻苦堅忍の・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・ 家庭をもっている女が、良人と子供とのために自分の全時間、全精力、あらゆる悲喜を打ちかたむけて生きることも、それで生き終せればあるいは一つの幸福かもしれません。しかし、予期しない波瀾や破局が起った時、そのようにして自分の若さも才能も生活・・・ 宮本百合子 「現実の道」
・・・通俗文学はなるほど数の上では多勢によまれているであろうが、描かれている生活の現実は勤労生活をしている者の日常の悲喜を活々とうつしているのではない。都会の安逸な有閑者の生活に生じてくる恋愛中心の波瀾、それをめぐっての有閑者流な人情の葛藤の面白・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
出典:青空文庫