・・・(掴ひしぐがごとくにして突離す。初の烏、どうと地に座す。三羽の烏はわざとらしく吃驚の身振地を這う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。紳士 ははあ、御免な・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・何という凄惻の悲史であろう。同じ操觚に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・……日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚えて候へば、一代聖教を検べて、母の孝養を仕らんと存じ候。」 一体日蓮には一方パセティックな、ほとんど哭くが如き、熱・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・世間で彼此云ってわたしの耳に這入らないうちに、あの人が自分で話したから好かったわね。フリイデリイケばかりではないわ。一体なんだってどの女もどの女もあの人にでれ付くのだろう。なんでもあの人があの役所に勤めているもんだから、芝居へ買われる時に、・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・こころの。まどわまし。きかぬむかしぞ。こひしかりける。○同十日。そら。あしく。てりもせず、ふりもせず。そして、わしわ、すまぬことをしたわい。あやまり、あやまり。○同十一日。うてん。さて。めづらしき、さたを、きく。○同十二日。気が・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・大方似あひたる風体を、安安とほねを折らで、脇のしてに花をもたせて、あひしらひのやうに、少少とすべし。たとひ脇のしてなからんにつけても、いよいよ細かに身をくだく能をばすまじきなり。云々。」またいう。「五十有余。この比よりは、大方せぬならでは、・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・そればかりでなく煙管の吸口をガリガリ噛むので銀の吸口が扁たくひしゃげていたようである。いくら歯が丈夫だとしてもあんなに噛みひしゃぐには口金の銀が相当薄いものでなければならなかったと考えられる。それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹のおかげ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・「生きながら直に打ちこむひしこ漬」「椋の実落ちる屋根くさるなり」なども全く同様な例である。こういう重複はもちろん歓迎されないものである。 こういう例はあげれば際限はない。そうしてこういう例として適当なものは、連句として必ずしも上乗なもの・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・しかし知十翁が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・大袈裟な言葉で云うと彼此の人生観が、ある点において一様でない。と云うに過ぎん。 人事に関する文章はこの視察の表現である。したがって人事に関する文章の差違はこの視察の差違に帰着する。この視察の差違は視察の立場によって岐れてくる。するとこの・・・ 夏目漱石 「写生文」
出典:青空文庫