・・・中にも、この小さな木の芽は、柔らかな頭をひたひたとさして、いまにもちぎれそうでありました。 粗野で、そそっかしい風は、いつやむと見えぬまでに吹いて、吹いて吹き募りました。木の芽は、もはや目をまわして、いまにも倒れそうになったのであります・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・心から遠退いていた故郷と、然も思いもかけなかったそんな深夜、ひたひたと膝をつきあわせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に感じました。私はいささか亢奮をしていたのです。 然しそれが芸術に於て・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・浪がひたひたと石崖に当る。ほど経て横手からお長が白馬を曳いて上ってきた。何やら丸い物を運ぶのだと手真似で言って、いっしょに行かぬかと言うのである。自分はついて行く気になる。馬の腹がざわざわと薄の葉を撫でる。 そこを出ると水天宮の社である・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 月のない闇黒の一夜、湖心の波、ひたひたと舟の横腹を舐めて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然の恐怖、地獄の底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却し果てた、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・スパイが無言で自分の背後に立っているような不安。ひたひたと眼に見えぬ洪水が闇の底を這って押し寄せて来ているような不安。いまに、ドカンと致命的な爆発が起りそうな不安。 鶴は洗面所で嗽いして、顔も洗わず部屋へ帰って押入れをあけ、自分の行李の・・・ 太宰治 「犯人」
・・・即物的な柔軟さ、こわばったところのない暖く雄勁な筆致で、対象にひたひたとよって行く感じは、まことに立派に思えた。自分というものを押し出したような強さではなくて、宗達は自然、動物、人間それぞれなりの充実感によりそって行って、そこへはまり込み、・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺めました。でも大変風がきつかった。そして、さむくあった。 黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともし・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 慰めてのない彼等の苦痛、軽ぜられていた生命の歎息が、無限の哀愁のうちに、ひたひたと迫って来るのを、彼女は感じずにはいられなかった。 破れた、穢い穢い上衣の肩の上に垂れて、激しく痙攣していたあの青い顔、深い溜息。 彼女は、記憶の・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・しかし中国人民の目ざめとともに、人民生活は、つよくひたひたと彼の紳士であり大先生である皮膚にしみ入って来たと思える。彼はそこに血のぬくもりと、折れども折れぬ民衆の生活力と、学問ならざる愛すべき人間叡智とを感じ直しているように思える。「人に依・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・ 粘土の浅黒い泥の上に水色の襞が静かにひたひたと打ちかかる。葦に混じって咲く月見草の、淡い黄の色はほのかにかすんで行く夕暮の中に、類もない美くしさを持って輝くのである。 堤に植えられた桜の枝々は濃く重なりあって深い影をつくり、夏、村・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫