・・・(忙がしげに抽斗を開け、一束の手紙を取り出恋の誓言、恋の悲歎、何もかもこの中に書いてはある。己が少しでもそれを心に感じたのだと思って貰うと大違いだ。(主人は手紙の束を死の足許これが己の恋の生涯だ。誠という物を嘲み笑って、己はただ狂言をして見・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・大衆的な某誌は、その反動保守的な編輯方針の中で、色刷り插絵入りで、食い物のこと、悲歎に沈む人妻の涙話、お国のために疲れを忘れる勤労女性の実話、男子の興味をそそる筆致をふくめた産児制限談をのせて来た。 また、或る婦人雑誌はその背後にある団・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・――ここで夫人の受けられる悲歎、悲痛な恢復、新らしい生活への進展ということが、私にとって冷々淡々としておられる「ひとごと」ではなくなって来ます。 逝去の報知を手にした時、自分の心に衝上って来た、驚き竦え、考えに沈んだ心持は、恐らく、これ・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・彼女の奏するピアノをきいて、スーの父親である老教授は、かすかに慄えて、自分がこれまでの生涯を浪費したことを悲歎した。その恐怖が彼女にブレークと自分との生活の実体についての疑問を目ざめさせたのであった。 スーザンは、家の附近の粗末なアパー・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
・・・今日の日本の二十歳前後の女性たちが、その胸に謡曲の世界の女性たち、四百年も昔の女性たちが、歎いたような悲歎、怨じたような恨、怨霊となってその思いを語らずにいられないほど生きている間には忍んでいた苦悩などを蔵して生きていてよいものだろうか。・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・痴人は人類の悲歎でございます。其故、私は真に徹した生活をして居る者の価値は、日常生活の風習の差異等を眼中に置かない共鳴を持つと信じて居ります。然し、私が此から観て行こうとするのは、一般でございます。中位の一群でございます。私が故国の女性を思・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・それほど、わたしたちは、食べ飽き、幸福にみちたり、どんな悲歎からも遠い存在であるだろうか。自分たちの祖国のせまくとも誇りあるべき土の上に、浮浪児や失業者や体を売って生きる女性群を放浪させながら、少数のものが自覚のおそい日本人民の統治しやすさ・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
・・・ けれども、そのときの悲しみ、涙は、もう生きているのが厭さに落す涙でもなければ、悲歎でもない。 不幸な若死をした自分を悼む涙であり、死なれた周囲に同情する悲しみである。 あれほど魂の安息所のようにも、麗わしい楽園のようにも思われ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・然し苦しさには、涙が道づれでない。悲歎は嵐だ。或る時は、春さきの暴風雨だ。濡れた心から芽が萌える。苦しさ、この苦しさは旱魃だ。乾く。心が痛み、強ばり罅が入る。 私はどうかして一晩夢中で悲しみ、声をあげて泣き、この恐ろしい張りつめた心の有・・・ 宮本百合子 「文字のある紙片」
・・・公荘は悲歎の裡に死ぬ。允子は不安の絶えないその後の生活の或る日映画の「丘を越えて」を見物して、心機一転した。允子は「丘を越えて」の母親の生きかたの不甲斐なさに刺戟され「女は年をとると子供の外に何もないのがいけないのじゃないでしょうか」「母親・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫