・・・その中で頭の上の遠くに、菱の花びらの半ばをとがったほうを上にしておいたような、貝塚から出る黒曜石の鏃のような形をしたのが槍が岳で、その左と右に歯朶の葉のような高低をもって長くつづいたのが、信濃と飛騨とを限る連山である。空はその上にうすい暗み・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・―ところで、とぼけきった興は尽きず、神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味と、研究と、地鎮祭をかねて、飛騨、三河、信濃の国々の谷谷谷深く相交叉・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・――やがて、知己になって知れたが、都合あって、飛騨の山の中の郵便局へ転任となって、その任に趣く途中だと云う。――それにいささか疑はない。 が、持主でない。その革鞄である。 三 這奴、窓硝子の小春日の日向にしろ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 金岡の萩の馬、飛騨の工匠の竜までもなく、電燈を消して、雪洞の影に見参らす雛の顔は、実際、唯瞻れば瞬きして、やがて打微笑む。人の悪い官女のじろりと横目で見るのがある。――壇の下に寝ていると、雛の話声が聞える、と小児の時に聞いたのを、私は・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ さては随筆に飛騨、信州などの山近な片田舎に、宿を借る旅人が、病もなく一晩の内に息の根が止る事がしばしば有る、それは方言飛縁魔と称え、蝙蝠に似た嘴の尖った異形なものが、長襦袢を着て扱帯を纏い、旅人の目には妖艶な女と見えて、寝ているものの・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・あのお父さんは歌を読みました。飛騨の山中でお父さんの読んだ歌には、なかなか好いのが有りますぜ。短い言葉で、不器用な言い廻しで、それでもお父さんの旅の悲しみなどがよく出ていますよ。姉さんにもああいうことがあったら、そんなに苦しまずにも済むだろ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・大きな深い千曲川の谷間はその鳴声で満ち溢れて来た。飛騨境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処に長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思議な寂寞は蛙の鳴く谷底の方から匍い上って来た。恐しく成って、逃げる・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・曙覧が実地に写したる歌の中に飛騨の鉱山を詠めるがごときはことに珍しきものなり。日の光いたらぬ山の洞のうちに火ともし入てかね掘出す赤裸の男子むれゐて鉱のまろがり砕く鎚うち揮てさひづるや碓たててきらきらとひかる塊つきて粉にする・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・更衣印籠買ひに所化二人床涼み笠著連歌の戻りかな秋立つや白湯香しき施薬院秋立つや何に驚く陰陽師甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋いでさらば投壺参らせん菊の花易水に根深流るゝ寒さかな飛騨山の質屋鎖しぬ夜半の冬乾鮭や帯刀・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・同じ場所から攻め入った柳川の立花飛騨守宗茂は七十二歳の古武者で、このときの働きぶりを見ていたが、渡辺新弥、仲光内膳と数馬との三人が天晴れであったと言って、三人へ連名の感状をやった。落城ののち、忠利は数馬に関兼光の脇差をやって、禄を千百五十石・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫