・・・僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川をさかのぼるほかはありません。僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ 僕はだんだん苛立たしさを感じ、もう一度欄干によりかかりながら、やはり人波の去来する埠頭の前後を眺めまわした。そこには肝腎のBさんは勿論、日本人は一人も見当らなかった。しかし僕は桟橋の向うに、――枝のつまった葉柳の下に一人の支那美人を発・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・――こう云う不安は、丁度、北支那の冬のように、このみじめな見世物師の心から、一切の日光と空気とを遮断して、しまいには、人並に生きてゆこうと云う気さえ、未練未釈なく枯らしてしまう。何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなけれ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・それは僕が人並みよりも体が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束ねにした褌かつぎが相撲膏を貼っていたためかもしれない。 一九 宇治紫山 僕の一家は宇治紫山という人に一中節を習っていた。この人は酒・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・と思うとそのところどころには、青糸毛だの、赤糸毛だの、あるいはまた栴檀庇だのの数寄を凝らした牛車が、のっしりとあたりの人波を抑えて、屋形に打った金銀の金具を折からうららかな春の日ざしに、眩ゆくきらめかせて居りました。そのほか、日傘をかざすも・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・「俺しは元来金のことにかけては不得手至極なほうで、人一倍に苦心をせにゃ人並みの考えが浮かんで来ん。お前たちから見たら、この年をしながら金のことばかり考えていると思うかもしらんが、人が半日で思いつくところを俺しは一日がかりでやっと追いつい・・・ 有島武郎 「親子」
・・・仁右衛門は惘然したまま、不思議相な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外はなかった。 獣医の心得もある蹄鉄屋の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その頭と、下から出かかった頭が二つ……妙に並んだ形が、早や横正面に舞台の松と、橋がかりの一二三の松が、人波をすかして、揺れるように近々と見えるので……ややその松の中へ、次の番組の茸が土を擡げたようで、余程おかしい。……いや、高砂の浦の想われ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・年の割合には気は若いけれど、からだはもう人並み以上である。弱音を吹いて見たところで、いたずらに嘲笑を買うまでで、だれあって一人同情をよせるものもない。だれだってそうだといわれて見るとこれきりの話だ。 省作も今は、なあにという気になった。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。して、倒れとるものが皆自分の命令に従ごて来るつもりらしかった。それが大石軍曹や。」 友人は不思議ではないかと云わぬばかりに、僕と妻君との顔を順ぐりに見た。「戦場では」と僕・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫