・・・ 遠藤がそんなことを考えていると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。「おや、紙切れが落ちて来たが、――もしや御嬢さんの手紙じゃないか?」 こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露わにした胸! 赤い篝火の光の中に、艶々と浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・黒塀の外には春の日の光に銀の粉を浴びた紋白蝶が一羽、気楽そうにひらひら飛んでいます。「ああ、きょうから宿無し犬になるのか?」 白はため息を洩らしたまま、しばらくはただ電柱の下にぼんやり空を眺めていました。三 お嬢さん・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・その代り空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。 二 杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・夕餉前のわずかな時間を惜しんで、釣瓶落としに暮れてゆく日ざしの下を、彼らはわめきたてる蝙蝠の群れのように、ひらひらと通行人にかけかまいなく飛びちがえていた。まともに突っかかって来る勢いをはずすために、彼は急に歩行をとどめねばならなかったので・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ しばらく同じ処に影を練って、浮いつ沈みつしていたが、やがて、すいすい、横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、蘆の根づたいに大廻りに、ひらひらと引き返す。 穂は白く、葉の中に暗くなって、黄昏の色は、うらがれかかった草の葉末に敷き詰めた・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 火の粉かと見ると、こはいかに、大粒な雨が、一粒ずつ、粗く、疎に、巨石の面にかかって、ぱッと鼓草の花の散るように濡れたと思うと、松の梢を虚空から、ひらひらと降って、胸を掠めて、ひらりと金色に飜って落ちたのは鮒である。「火事じゃあねえ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・手箱ほど部の重った、表紙に彩色絵の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅の雫を挙げて、その並木の松の、就中、山より高い、二三尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水に咽んだ葉に隠れた。――瞬く間である。―― ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・する内に、またお猿をやって、ころりと屈んだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴め、ぶらぶらと裾に泡を立てて、いきをついて畝って来て、今度はおらが足の舵に搦んで、ひらひらと燃えただよ。 おらあ、目を・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・姉のは黄色く妹のは紅色のりぼんがまた同じようにひらひらと風になびく。予は後から二児の姿を見つつ、父という感念がいまさらのように、しみじみと身にこたえる。「お父さんあれ家だろう。あたいおぼえてるよ」「あたいだって知ってら、うれしいなァ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
出典:青空文庫