・・・虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じないよう・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあがりつ胡蝶のひらひらと舞い出でたる箱根のいただきとも知らずてやいと心づよし。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然として現われ出でたる富士ここからもなお三千仞はあるべしと思うに更にその影を幾許の深さに沈・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 小い黄な蝶はひらひらと飛んで来て干し衣の裾を廻ったが直ぐまた飛んで往て遠くにあるおしろいの花をちょっと吸うて終に萩のうしろに隠れた。 籠の鶉もまだ昼飯を貰わないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る。 台所では皿徳・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・マントも一緒にひらひら波を立てました。「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論時々壊すこともあるけれども廻してやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・葡萄いろの重い雲の下を、影法師の蝙蝠がひらひらと飛んで過ぎました。 子供らが長い棒に紐をつけて、それを追いました。 子供らは棒を棄て手をつなぎ合って大きな環になり須利耶さま親子を囲みました。 須利耶さまは笑っておいででござい・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・乗ってるものはみな赤シャツで、てかてか光る赤革の長靴をはき、帽子には鷺の毛やなにか、白いひらひらするものをつけていた。鬚をはやしたおとなも居れば、いちばんしまいにはペムペル位の頬のまっかな眼のまっ黒なかあいい子も居た。ほこりの為にお日さまは・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・ 名のとおり日本服を改良して、洋装との間にしようとした改良服は、上を、つつ袖の口をひらひら飾りにし、うち合わせ襟で、スカートの部分とくっつけたワンピースだった。スカートは袴の伝統をもって、きちんとたたんで襞をつけられ、バンドのうしろは袴・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・此方ではカフェー・パリスと赤旗がひらひらしている。市民の遊覧、ルウソーの絵の感じであった。陽気で愛らし。 溺死人の黒い頭、肩。人間の沢山いる棧橋の方へ、何か魂の引力みたいなもので漂って来まいかといいようなくこわかった。その傍を通り過た漁・・・ 宮本百合子 「狐の姐さん」
・・・ 宏やかな自然の風景を写している由子の意識の上に暫く紫の前掛が鄙びた形でひらひらした。段々その幻影がぼやけ、紐だけはっきり由子の心に遺った。紐は帯留めのお下りであった。あの帯留は母が買って来た。「まあこんな廉いものがあるんだね」そう云っ・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ 後れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶が群れて飛ぶように見えて来る。 これもお揃の、藍色の勝った湯帷子の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。「わたし一番よ」・・・ 森鴎外 「杯」
出典:青空文庫