・・・女はやや驚いたように、ぴたりとそこへ足を止めた。が、相手の祈祷していることは直にそれと察せられたらしい。女は神父を眺めたまま、黙然とそこに佇んでいる。 堂内は不相変ひっそりしている。神父も身動きをしなければ、女も眉一つ動かさない。それが・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・大浦は彼の顔を見ると、そう云う場所にも関らず、ぴたりと姿勢を正した上、不相変厳格に挙手の礼をした。保吉ははっきり彼の後ろに詰め所の入口が見えるような気がした。「君はこの間――」 しばらく沈黙が続いた後、保吉はこう話しかけた。「え・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・と、まだ、方々見させてさえござりまする。」「そうかい、此家は広いから、また迷児にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具が、指の中でパチリと鳴る。 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 白い炎が、影もなく橋にぴたりと寄せた時、水が穂に被るばかりに見えた。 ぴたぴたと板が鳴って、足がぐらぐらとしたので私は飛び退いた。土に下りると、はや其処に水があった。 橋がだぶりと動いた、と思うと、海月は、むくむくと泳ぎ上がっ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・と並んだ、手習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団に坐って、蔽のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑に煙草を吸ったあとで、円い肘を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は悚然と・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・その文体が、そこにあらわれた趣味、考え方が、どうしても、ぴたりと心に合致しないのです。私は、書物は独立した一個の存在であると信じています。そこには、著者の個性があり、また感情があります。従って、これを好むと好まざるとは、互の素質に因らなけれ・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・鞭は持たず、伏せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱をしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬の胴につけた数字の1がぱっと観衆の眼にはいり、1か7か9か6かと眼を凝らした途端、はやゴール直前で白い息を吐いている先頭の・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・しかしその足音は僕の背後へそうっと忍び寄って来て、そこでぴたりと止まってしまうんです。それが妄想というものでしょうね。僕にはその忍び寄った人間が僕の秘密を知っているように思えてならない。そして今にも襟髪を掴むか、今にも崖から突き落とすか、そ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・この時二階の笑声もぴたり止んで、下を覗がい聞耳をたてている様子。自分は狼狽えて言葉が出ない。もじもじしていると台所口で「お待遠さま」という声がした。母は、「お光、お光お鮨が来たよ」と呼んだ。お光は下りて来る。格子が開いたと思うと「今日は・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫