・・・これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹の間から、磨いたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮のにおいとともに・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・それが今不意に目の前へ、日の光りを透かした雲のような、あるいは猫柳の花のような銀鼠の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀をしてしまった。 ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 調子にのって弁じていた了哲と云う坊主が、ふと気がついて見ると、宗俊は、いつの間にか彼の煙管入れをひきよせて、その中から煙草をつめては、悠然と煙を輪にふいている。「おい、おい、それは貴公の煙草入れじゃないぜ。」「いいって事よ。」・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・そしてふいと立ち上がるとかまわずに事務所の方に行ってしまった。 座敷とは事かわって、すっかり暗くなった囲炉裡のまわりには、集まって来た小作人を相手に早田が小さな声で浮世話をしていた。内儀さんは座敷の方に運ぶ膳のものが冷えるのを気にして、・・・ 有島武郎 「親子」
・・・仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意を喰って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠を聞いた兎のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・彼れはくさくさしてふいと座を立った。相手が何とかいうのを振向きもせずに店を出た。雨は小休なく降り続けていた。昼餉の煙が重く地面の上を這っていた。 彼れはむしゃくしゃしながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それでふいと思い出したことがある。それは昔余所の犬のするのを見て、今までは永く忘れて居たことであった。クサカはそれをやる気になって、飛びあがって、翻筋斗をして、後脚でくるくる廻って見せた。それも中々手際よくは出来ない。 レリヤはそれを見・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・これはさ程痛かったためではないが、余り不意であったために泣いたのだ。さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房を擲って居た。そうしてたった一週間前に買って遣った頭に被る新しい巾を引き裂いた。 それからこの犬は人間というものを信用しな・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ この池を独り占め、得意の体で、目も耳もない所為か、熟と視める人の顔の映った上を、ふい、と勝手に泳いで通る、通る、と引き返してまた横切る。 それがまた思うばかりではなかった。実際、其処に踞んだ、胸の幅、唯、一尺ばかりの間を、故とらし・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・る、その目覚しさは……なぞと、町を歩行きながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、扮装したのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子、べたりと味噌を塗った太擂粉木で、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言う隙・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
出典:青空文庫