・・・三吉は縁のはしに腰かけ、手拭で顔をふいたが、二人のわらいごえにつれられて、まげに赤い手絡をかけた深水の嫁さんが、うちわをそッと三吉のまえにだすと、同時にからだをひきながら、ころころとわらいころげた。「ずいぶん、ごねっしんね」 低声で・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 断髪の娘は、不意に、天秤棒でお臀を殴られると、もろくそこへ、ヘタってしまった。「いたいッ」 娘は、金切声で叫びながら、断髪頭を振り向けて、善ニョムさんを睨んだ。「ど、どうしてくれる、この麦を!」 善ニョムさんは、その断・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・大弓を提げた偉大の父を真先に、田崎と喜助が二人して、倒に獲物を吊した天秤棒をかつぎ、其の後に清五郎と安が引続き、積った雪を踏みしだき、隊伍正しく崖の上に立現われた時には、私はふいと、絵本で見る忠臣蔵の行列を思出し、ああ勇しいと感じた。然し真・・・ 永井荷風 「狐」
・・・漫歩の途次、思いかけずその処に行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立って尋ねたよりも遥に深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫たる暮烟につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以であ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・――これは提灯の火に相違ないとようやく判断した時それが不意と消えてしまう。 この火を見た時、余ははっと露子の事を思い出した。露子は余が未来の細君の名である。未来の細君とこの火とどんな関係があるかは心理学者の津田君にも説明は出来んかも知れ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚、がんもどきと怒鳴って、あるかなくっちゃならないかね」「華族でもない癖に」「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」「あってもそのくらいじゃ駄目だ」「このくらいじゃ豆腐いと云う資・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 原田重吉が、ふいに夢の中へ跳び込んで来た。それで彼らのヴィジョンが破れ、悠々たる無限の時間が、非東洋的な現実意識で、俗悪にも不調和に破れてしまった。支那人は馳け廻った。鉄砲や、青竜刀や、朱の総のついた長い槍やが、重吉の周囲を取り囲んだ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・然るにその瞬間、不意に例の反対衝動が起って来る。そして逆に、「この馬鹿野郎!」と罵る言葉が、不意に口をついて出て来るのである。しかもこの衝動は、避けがたく抑えることが出来ないのである。 この不思議な厭な病気ほど、僕を苦しめたものはない。・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・不実に考えりゃア、無断で不意と出発て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。もう承知しておくれだッたのだから、くどく言うこともないのだが……。お前さんの性質だと……もうわかッてるんだから安心だが…・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・なんでもふいと盗んだのだ。その時の事はもう精しくは知っていない。忘れてしまった。とにかくその青金剛石はおれが持っている。世界に二つとない正真正銘の青金剛石だ。世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなか・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫