・・・ 右の六月十九日の検挙は、曾根崎署だけでなく、府下一斉に行われ、翌日もまたくりかえされたのだが、梅田でもやはり「警報」が出た。しかし、さすがに逃げおくれた連中がいて、押収された煙草は二日間合計して、十五万本だということである。 逃げ・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・「そいつあ不可んよ君。……」 横井は彼の訪ねて来た腹の底を視透かしたかのように、むずかしい顔をして、その角張った広い顔から外へと跳ねた長い鬚をぐい/\と引張って、飛び出た大きな眼を彼の額に据えた。彼は話題を他へ持って行くほかなかった・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗いて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうに・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠め・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・いったい病身な児だから余程気をつけないと不可ませんよ」と云いつつ今度は自分の方を向いて、「学校の方はどうだね」「どうも多忙しくって困ります。今日もこれから寄附金のことで出掛けるところでした」「そうかね、私にかまわないでお出かけよ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・と細君は附加した。「否、私は『中の部屋』のお戸棚へ衣類を入れさして頂ければ尚お結構で御座ます」「それじゃ先あそう決定るとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともな・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・婦人に対する礼と保護との男性的負荷を見よ、事業と生活に対する熱情と欲望とを見よ。そしてこれらのものにして欠けていないならば、あまりに窮屈な、理解のないことをいうな。極端な束縛とヒステリーとは夫の人物を小さくし、その羽翼をぐばかりでなく、また・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・何の内助の才能もなく、一生の負荷となるような女性と、きわめて不相応な時機に、ただ運命的な恋愛のみの故で、はなれ難く結びつくことはあり得るものだ。そして恋愛と結婚との真実の根拠はこの運命的な恋愛のみの上にあるのであって、その他は善悪とも付加条・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そして恋愛と結婚との真実の根拠はこの運命的な恋愛のみの上にあるのであって、その他は善悪とも付加条件にすぎないのである。この相手の女性は美しいから、善いから、好都合だから私の妻なのではない。二人の恋愛の中に運命を見たから、二人は夫婦なのだ。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・このことは卒業後の生活の物質的計画をきわめて困難な、不可能に近いものに考えさせるようになる。物質的清貧の中で精神的仕事に従うというようなことは夢にも考えられなくなる。一口にいえば、学生時代の汚れた快楽の習慣は必ず精神的薄弱を結果するものだ。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫