・・・ 否な、人間の死は科学の理論を俟つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁がれ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸が暗い・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が五万六千、焼けたり流れたりしたのが三十七万八千、死者十一万四千、負傷者十一万五千を出し、損害総額百一億円・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・あれは昨年十月ぼくの負傷直前の制作です。いま、ぼくはあれに対して、全然気恥しい気持、見るのもいやな気持に駆られています。太宰さんの葉書なりと一枚欲しく思っています。ぼくはいま、ある女の子の家に毎晩のように遊びに行っては、無駄話をして一時頃帰・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌いだ。かれは病院の背後の便所を思・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 戦場で負傷したきずに手当てをする余裕がなくて打っちゃらかしておくと、化膿してそれに蛆が繁殖する。その蛆がきれいに膿をなめつくしてきずが癒える。そういう場合のあることは昔からも知られていたであろうが、それが欧州大戦以後、特に外科医の方で・・・ 寺田寅彦 「蛆の効用」
・・・はじめには負傷者の床の上で一枚の獣皮を頭から被って俯伏しになっているが、やがてぶるぶると大きくふるえ出す、やがてむっくり起上がって、まるで猛獣の吼えるような声を出したりまた不思議な嘯くような呼気音を立てたりする。この巫女の所作にもどこか我邦・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・ さて、それほどに事柄が明白ならば、一体どうして、そんな不祥な問題が発生し得るか。価値のあるものなら通過し、ないものは通過しないと決まっているのなら、私利私情などというものの入り込む余地はないではないかということになる。正にその通りであ・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・そして結局何かしら不祥な問題でも起してやはり汚名を後生に残したかもしれない。 こういう点でどこかスパランツァニに似ている。優れた自由な頭脳と強烈な盲目の功名心の結合した場合に起りやすい現象であると思う。 この随筆中に仏書の悪口をいう・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・というはなはだ不祥なことが、よく言えば一つの交響楽の演奏をするということにもなりうる。めいめいがソロをきかせるつもりでは成り立たないのである。 中学時代にはよく「おれは何々主義だ」と言って力こぶを入れることがはやった。かぼちゃを食わぬ主・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
出典:青空文庫