芭蕉の句で忘られないのがいくつかある。あらたうと青葉若葉の日の光いざゆかん雪見にころぶところまで霧時雨不二を見ぬ日ぞおもしろき それから又別な心の境地として、初しぐれ猿も小蓑をほ・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・然し、平時の生活はどうでもなりはしても、不時の災害の種々な場合を予想してそれを断行し得ない者が幾人あるか分りません。 自分が一旦宣言して、境遇から、或る人間の裡から去ったのに、どうして又病気になったからと云って、おめおめ尾を振って行かれ・・・ 宮本百合子 「ひしがれた女性と語る」
・・・「大丈夫です。不時収入があるんですから――……尤も私のはいつだって不時収入ですが……」 尾世川は、しまってあるステッキをわざわざ戸棚から出し、それを腕にかけて外へ出た。 駅前の広場で、撒水夫がタッタッタッ車を乱暴に引き廻して水を・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・これまでは宗玄をはじめとして、既西堂、金両堂、天授庵、聴松院、不二庵等の僧侶が勤行をしていたのである。さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁もないものでも、京都から来るお針・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・これは私の手紙としては、最長い手紙で、世間で不治の病と云うものが必ず不治だと思ってはならぬ、安心を得ようと志すものは、病のために屈してはならぬと云うことを、譬喩談のように書いたものであった。私は安国寺さんが語学のために甚だしく苦しんで、その・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・ その内に日は名残りなくほとんど暮れかかッて来て雲の色も薄暗く、野末もだんだんと霞んでしまうころ、変な雲が富士の裾へ腰を掛けて来た。原の広さ、天の大きさ、風の強さ、草の高さ、いずれも恐ろしいほどに苛めしくて、人家はどこかすこしも見えず、・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・悠々たる観の世界は否定の否定の立場として自他不二の境に我々を誘い込むのである。 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
・・・白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒い正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。 吾人はこの例を一高校風に適用・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫