・・・ ふとしたことから、私は手にしたある雑誌の中に、この遠く離れている子の心を見つけた。それには父を思う心が寄せてあって、いろいろなことがこまごまと書きつけてあった。四人の兄妹の中での長男として、自分はいちばん長く父のそばにいて見たから、そ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を営み、佐吉さんは其の家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは私も逢・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 油地獄にも、ならずものの与兵衛とかいう若い男が、ふとしたはずみで女を、むごたらしく殺してしまって、その場に茫然立ちつくしていると、季節は、ちょうど五月、まちは端午の節句で、その家の軒端の幟が、ばたばたばたばたと、烈風にはためいている音・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・家の経済を思えば、一銭のむだ使いも出来ぬ筈であるのに、つい、ふとした心のはずみから、こんな、つまらぬ旅行を企てる。少しも気がすすまないのに、ふいと言い出したら、必ずそれを意地になって実行する。そうしないと、誰かに嘘をついたような気がして、い・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・「ひょんな事」「ふとした事」「妙な縁」「きっかけ」「もののはずみ」などという意味に解してもよろしいかと思われるが、私の今日までの三十余年間の好色生活を回顧しても、そのような事から所謂「恋愛」が開始せられた事は一度も無かった。「もののはずみ」・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・何の関係もないことであるにもかかわらず、ふとした錯覚で何かしら関係があるような気がしたのは、たしかに自分の頭の迷誤である。それで、これも不思議な錯覚の一例として後日の参考のためについでに書添えておくこととする。・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
一 草をのぞく 浅間火山のすそ野にある高原の一隅に、はなはだ謙遜なHという温泉場がある。ふとした機縁からそこでこの夏のうちの二週間を過ごした。 避暑という、だれもする年中行事をかつてしたことのなかった自・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・四 諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡夫の身の悲しさに、珍々先生は昨日と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲って置くお妾の身の上や、馴初めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・自分の経験もやはりふとした場所で意外な手紙の発見をしたということにはなるが、それが導火線になって、思いがけなくある実際上の効果を収めえたのであるから、手紙そのものにはそれほど興味がない。少なくとも、小説的な情調のもとに、それを読みえなかった・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・その時ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利くようになった。暖かい日の午過食後の運動がてら水仙の水を易えてやろうと思って洗面所へ出て、水道の栓を捩っていると、その看護婦が受持の室の茶器を洗いに来て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分・・・ 夏目漱石 「変な音」
出典:青空文庫