・・・――その後二月とたたないうちに、突然官命を受けた夫は支那の漢口の領事館へ赴任することになるのです。 主筆 妙子も一しょに行くのですか? 保吉 勿論一しょに行くのです。しかし妙子は立つ前に達雄へ手紙をやるのです。「あなたの心には同情す・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・「ところがその中に私はある官辺の用向きで、しばらく韓国京城へ赴任する事になりました。すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず三浦から結婚の通知が届いたじゃありませんか。その時の私の驚きは、大抵御想像がつきましょう・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」 と俯向いて探って、鉄縁の時計を見た。「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。…… 令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。 駅員に御話し・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 私が鴎外と最も親しくしたのは小倉赴任前の古い時代であった。近時は鴎外とも疎縁となって、折々の会合で同席する位に過ぎなかったが、それでも憶出せば限りない追懐がある。平生往来しない仲でも、僅か二年か三年に一遍ぐらいしか会わないでも、昔・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・はその七年まえ私が十三のときに、もう他界なされて、あとは、父と、私と妹と三人きりの家庭でございましたが、父は、私十八、妹十六のときに島根県の日本海に沿った人口二万余りの或るお城下まちに、中学校長として赴任して来て、恰好の借家もなかったので、・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・自分の五歳の頃から五年ほどの間熊本鎮台に赴任したきり一度も帰らなかった父の留守の淋しさ、おそらくその当時は自覚しなかった淋しさが、不思議にもこの燈下の寒竹の記憶と共に、はっきりした意識となって甦って来るのである。 虎杖もなつかしいものの・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
明治十四年自分が四歳の冬、父が名古屋鎮台から熊本鎮台へ転任したときに、母と祖母と次姉と自分と四人で郷里へ帰って小津の家に落ちつき、父だけが単身で熊本へ赴任して行った。そうして明治十八年に東京の士官学校附に栄転するまでただの・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・太平洋からまともにはげしい潮風の吹きつけるある南国の中学にレコードをとどめた有名なストライキのあらしのあった末に英国仕込みでしかも豪傑はだの新しい校長が卒業したての新学士の新職員五六人を従えて赴任すると同時にかび臭いこの田舎の中学に急に新し・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・それで卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。 かの地に行ってからの生・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
出典:青空文庫