・・・その日は薄雲が空に迷って、朧げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗の葉が黄ばんでいる寺の塀外を徘徊しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。 しかしかれこれ午近くなっても、未に兵衛は見えなかった。喜三郎は・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・踏切りの近くには、いずれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであろう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺っていた。やっと隧道を出たと思う――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信号である。「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」 彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利を敷いた小径を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍り上った。その代り背・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・霙と日の光とが追いつ追われつして、やがて何所からともなく雪が降るようになった。仁右衛門の畑はそうなるまでに一部分しか耡起されなかったけれども、それでも秋播小麦を播きつけるだけの地積は出来た。妻の勤労のお蔭で一冬分の燃料にも差支ない準備は出来・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そうしたら、二人ばかりではなく、本棚までも箪笥まで空気と同じように触ることが出来ません。それを知ってか知らないでか、二人は前の通り一生懸命に、泣きながら、しきりと僕の名を呼んで僕を探していらっしゃいます。僕も声を立てました。だんだん大きく声・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・この度や蒋侯神、白銀の甲冑し、雪のごとき白馬に跨り、白羽の矢を負いて親しく自ら枕に降る。白き鞭をもって示して曰く、変更の議罷成らぬ、御身等、我が処女を何と思う、海老茶ではないのだと。 木像、神あるなり。神なけれども霊あって来り憑る。山深・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ と、首を振ると、耳まで被さった毛が、ぶるぶると動いて……腥い。 しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居た・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・その蝋燭が滑々と手に触る、……扱帯の下に五六本、襟の裏にも、乳の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚る、荒神も少くはありません。 ばか・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 俗に銀線に触るるなどと言うのは、こうした心持かも知れない。尊い文字は、掌に一字ずつ幽に響いた。私は一拝した。「清衡朝臣の奉供、一切経のうちであります――時価で申しますとな、唯この一巻でも一万円以上であります。」 橘南谿の東遊記・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・その、しなりと俎の下へ伸びた皓々とした咽喉首に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨、ぜんまいが、山賤には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※も居まいし、第一獣の臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲むもののような・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
出典:青空文庫