・・・ どうもこの頃は読者も高級になっていますし、在来の恋愛小説には満足しないようになっていますから、……もっと深い人間性に根ざした、真面目な恋愛小説を書いて頂きたいのです。 保吉 それは書きますよ。実はこの頃婦人雑誌に書きたいと思っている小・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・三人は手をつないだまま少しずつ深い方にはいってゆきました。沖の方を向いて立っていると、膝の所で足がくの字に曲りそうになります。陸の方を向いていると向脛にあたる水が痛い位でした。両足を揃えて真直に立ったままどっちにも倒れないのを勝にして見たり・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・奥さんもこんな風に自ら慰めて見て、深い溜息を衝いた。 夫を門の戸まで送り出すとき、奥さんはやっと大オペラ座の切符を貰っていた事を思い出して臆病げにこう云った。「あなた、あの切符は返してしまいましょうかねえ。」「なぜ。こんな事を済・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊とがある。 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒れていて、色が蒼い。 貴夫人はもう誰にも光と温とを授けることは出来ないだろう。・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・……日本はその国家組織の根底の堅く、かつ深い点に於て、何れの国にも優っている国である。従って、もしも此処に真に国家と個人との関係に就いて真面目に疑惑を懐いた人があるとするならば、その人の疑惑乃至反抗は、同じ疑惑を懐いた何れの国の人よりも深く・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・夏草の茂った中に、高さはただ草を抽いて二三尺ばかりだけれども、広さおよそ畳を数えて十五畳はあろう、深い割目が地の下に徹って、もう一つ八畳ばかりなのと二枚ある。以前はこれが一面の目を驚かすものだったが、何の年かの大地震に、坤軸を覆して、左右へ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・浅いか深いかわからぬが深いには相違ない。平生見つけた水の色ではない、予はいよいよ現世を遠ざかりつつゆくような心持ちになった。「じいさん、この湖水の水は黒いねー、どうもほかの水とちがうじゃないか」「ヘイ、この海は澄んでも底がめいません・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ことに最後の文句などには、深い呼吸が伴っているように聴えた。その「可哀そうじゃアないか」は、青木を出しに田島自身のことを言っていたのだろうが、吉弥は何の思いやりもなく、大変強く当っていた。かの女の浅はかな性質としては、もう、国府津に足を洗う・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・椿岳小伝はまた明治の文化史の最も興味の深い一断片である。 椿岳の名は十年前に日本橋の画博堂で小さな展覧会が開かれるまでは今の新らしい人たちには余り知られていなかった。展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫