・・・この箸がころんでも笑うものを、と憮然としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅の乱れた婦の、半ば起きた肩を抱いた。「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」「・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 憮然と部屋の隅につっ立っていた青年は、「たしかですか?」蒼ざめていた。「もう、五六日したら、記事も解禁になるだろうと思いますが。」善光寺は、新聞社につとめていた。 さちよは、静かに窓のカーテンをあけた。あたしは、病院でこの・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・我輩は移転後にこの話を聞いて憮然として彼の未来を想像した。 魯西亜と日本は争わんとしては争わざらんとしつつある。支那は天子蒙塵の辱を受けつつある。英国はトランスヴールの金剛石を掘り出して軍費の穴を填めんとしつつある。この多事なる世界は日・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。この吉兵衛に五人の男子があった。長男はやはり吉兵衛と名のったが、のち剃髪して八隅見山といった。二男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男がすなわち数馬である。 数馬は忠利の児小姓を勤めて、島・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・この歳赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国へ参り、慶長六年御当家に召抱えられ候。元和五年御当代光尚公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君と申候。景一は六丸君御附と相成り候。元和七年三斎公御致仕遊ばされ候時、景一も剃髪いたし、宗也と名告・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・筑前国では先ず大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。 長門国下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・この女の今しゃべっているのが、純粋な豊前語である。 そこで内のお時婆あさんや家主の爺さんの話と違って、おおよその意味は聞き取れるが、細かい nuances は聞き取れない。なんでも鶏が垣を踰えて行って畠を荒らして困まるということらしい。・・・ 森鴎外 「鶏」
私は豊前の小倉に足掛四年いた。その初の年の十月であった。六月の霖雨の最中に来て借りた鍛冶町の家で、私は寂しく夏を越したが、まだその夏のなごりがどこやらに残っていて、暖い日が続いた。毎日通う役所から四時過ぎに帰って、十畳ばか・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫