・・・それでは一つ貰いましょうと云って、財布を取り出すために壷を一度棚に返そうとする時に、どうした拍子か誤ってその壷を取り落した。下には磁器の堅いものがゴタゴタ並んでいたので、元来脆いこの壷の口の処が少しばかり欠けてしまった。私は驚いて「どうもと・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ これは全くの素人考えの空想であるが、しかし現代の生化学の進歩の趨勢には、あるいはこんな放恣な空想に対する誘惑を刺激するものがないでもないように思われるのである。 これとは話が変わるが、若い人にはとにかくとしても、もはや人生の下り坂・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・そうして自由に放恣な太古のままの秋草の荒野の代わりに、一々土地台帳の区画に縛られた水稲、黍、甘藷、桑などの田畑が、単調で眠たい田園行進曲のメロディーを奏しながら、客車の窓前を走って行くのである。何々イズムと名のついたおおかたの単調な思想のメ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・ 鼎をかぶって失敗した仁和寺の法師の物語は傑作であるが、現今でも頭に合わぬイズムの鼎をかぶって踊って、見物人をあっと云わせたのはいいが、あとで困ったことになり、耳の鼻ももぎ取られて「からき命まうけて久しく病みゐる」人はいくらでもある。・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・そういう意味における統制的要素としての定座が勤めるいろいろの役割のうちで特に注目すべき点は、やはり前述のごとき個性の放恣なる狂奔を制御するために個性を超越した外界から投げかける縛繩のようなものであるかと思われる。個性だけでは知らず知らずの間・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・遺書のようなものを、肌を離さずに持っていたのを、どうかした拍子に、ちらと見てからと云うもの、少しも気を許さない。どこへ出るにも馬丁をつけてやることにしていたんだ。夜分なども、碌々眠らないくらいにして、秋山大尉の様子に目を配っておった。「・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・死ぬるが生きるのである、殺さるるとも殺してはならぬ、犠牲となるが奉仕の道である。――人格を重んぜねばならぬ。負わさるる名は何でもいい。事業の成績は必ずしも問うところでない。最後の審判は我々が最も奥深いものによって定まるのである。これを陛下に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・これがために鐘の声は一時全く忘れられてしまったようになるが、する中に、また突然何かの拍子にわたくしを驚すのである。 この年月の経験で、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・落されたる拍子に、はたと他の一疋と高麗縁の上で出逢う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里の菓子皿を端まで同行して、ここで右と左へ分れる。三人の眼は期せずして二疋の蟻の上に落つる。髯・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・お前が作った車、お前に奉仕した車が、終に、車までがおまえの意のままにはならなくなってしまうんだ。 だが、今は一切がお前のものだ。お前はまだ若い。英国を歩いていた時、ロシアを歩いていた時分は大分疲れていたように見えたが、海を渡って来てから・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫