・・・まともに突っかかって来る勢いをはずすために、彼は急に歩行をとどめねばならなかったので、幾度も思わず上体を前に泳がせた。子供は、よけてもらったのを感じもしない風で、彼の方には見向きもせず、追って来る子供にばかり気を取られながら、彼の足許から遠・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ たとえば歩行の折から、爪尖を見た時と同じ状で、前途へ進行をはじめたので、あなやと見る見る、二間三間。 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪む、とあらず、歩を移すのは渠自身、すなわち立花であ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 優しく背を押したのだけれども、小僧には襟首を抓んで引立てられる気がして、手足をすくめて、宙を歩行いた。「肥っていても、湯ざめがするよ。――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。」 と、納戸で被布を着て、朱の長煙管を片手に、「新坊、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜、戸外を歩行いていたって、それで事は済みました。 内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。 西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 下廊下を、元気よく玄関へ出ると、女連の手は早い、二人で歩行板を衝と渡って、自分たちで下駄を揃えたから、番頭は吃驚して、長靴を掴んだなりで、金歯を剥出しに、世辞笑いで、お叩頭をした。 女中が二人出て送る。その玄関の燈を背に、芝草と、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・だから、歩行するのに、さまで神経を労しなかった。一里や二里位の路を往復することは、なんでもなかった。しかし、これがために、今日、近距離を行くにさへたる、境遇について、不平を言い、抗議することを知らない。いつも受動的であり、どんなとこにでも甘・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・道は遠し懐中には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・野中教師、ほとんど歩行困難の様子だが、よろめき、よろめき、足袋はだしのまま奥田教師たちのあとを追い下手に向う。節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふと、膝元の白い角封筒に眼をとめ、取りあげて立ち、縁側に出てはきものを捜し・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・健康ならばどんなにでも仕事の能率の上がる時でありながら気分が悪くて仕事が思うように出来ず、また郊外へ散歩にでも行けばどんなに愉快であろうと思うが、少し町を歩いただけで胃の工合が悪くなってどうにも歩行に堪えられなくなる。歩かなくても電車や汽車・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫