・・・しかし一円出しさえすれば、僕が欲しいと思う本は手にはいるのに違いなかった。僕はたびたび七十銭か八十銭の本を持ってきたのち、その本を買ったことを後悔していた。それはもちろん本ばかりではなかった。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じている。今・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・あなたの欲しいものは何ですか? 火鼠の裘ですか、蓬莱の玉の枝ですか、それとも燕の子安貝ですか? 小町 まあ、お待ちなさい。わたしのお願はこれだけです。――どうかわたしを生かして下さい。その代りに小野の小町を、――あの憎らしい小野の小町を・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・門から手招きする杢若の、あの、宝玉の錦が欲しいのであった。余りの事に、これは親さえ組留められず、あれあれと追う間に、番太郎へ飛込んだ。 市の町々から、やがて、木蓮が散るように、幾人となく女が舞込む。 ――夜、その小屋を見ると、おなじ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 軽くおさえて、しばらくして、「謂うことが分るか、姉さん、分るかい、お前さんはね、紛失したというその五百円を盗みも、見もしないが、欲しいと思ったんだろうね。可し、欲しいと思った。それは深切なこの婆さんが、金子を頂かされたのを見て、あ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・それはわれわれのなかにみな欲しい。今日われわれが正義の味方に立つときに、われわれ少数の人が正義のために立つときに、少くともこの夏期学校に来ている者くらいはともにその方に起ってもらいたい。それでドウゾ後世の人がわれわれについてこの人らは力もな・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ちょうどそのやさきへ、あるしんせつな老人がありまして、そのおじいさんはふだん龍雄をかわいがっていましたが、「私の知った町の糸屋で、小僧が欲しいということだから、龍雄をやったらどうだ、先方はみなしんせつな人たちばかりだ。なんなら私から頼ん・・・ 小川未明 「海へ」
・・・ これだけのことは、諸君はよく自覚して欲しい。 以上は、文章上の極めて初期に属する場合であるが、更に稍々進んで、ある程度まで自分の思想感情を文章となすことが出来る域に達した人は、往々一つの危険に出合うのである。それは自分の思想感情を・・・ 小川未明 「文章を作る人々の根本用意」
・・・なぜ、皆様方は梨の実が欲しいなどと無理な事を仰しゃったのです。可哀そうに、わたくしのたった一人の孫は、こんな酷たらしい姿になってしまいました。ああ、可哀そうに。可哀そうに。」 爺さんはこう言って、わあわあ泣きながら、子供の首を抱きしめま・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・それで蝶子、明日家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。本真の気持で言うのやないねんぜ。しし、芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいは直き帰って来る。――蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。 翌朝、高津のおきんを訪れ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・かと思うと、些細なことで気にいらないことがあると、キンキンした疳高い声で泣き、しまいには外行きの着物のまま泥んこの道端へ寝転ぶのだった。欲しいと思ったものは誰が何と言おうと、手に入れなければ承知せず、五つの時近所の、お仙という娘に、茶ダンス・・・ 織田作之助 「妖婦」
出典:青空文庫