・・・ ついでながら、切り立ての鋏穴の縁辺は截然として角立っているが、揉んで拡がった穴の周囲は毛端立ってぼやけあるいは捲くれて、多少の手垢や脂汗に汚れている。それでも多くの場合に原形の跡形だけは止めている。それでもしこのように揉んだ痕跡があっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そういう人の同情に報いるためには私の絵がもう少し人の目にうまく見えなければ気の毒だと思うのであった。 ほんのだいたいの色と調子の見当をつけたばかりで急いで絵の具箱を片付けてしまった。さてふり返って見るともうだれもいなかった。人々の好奇心・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・それがために後日できそこないの汽船をこしらえて恥をかくであろうことの厄運を免れた代わりに、将来下手な物理をこね回しては物笑いの種をまくべき運命がその時に確定してしまったわけである。しかし先生にその責任をもって行くわけでは毛頭ない。それどころ・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・は水の渦を巻く義。手結 「タイ」森。これではないらしい。あるいは「ツイ」切れるか。ビルマでは「テー」砂。出雲の手結とは必ずしも同じではないかもしれぬ。津呂 「ツル」は突き出る。二箇所の津呂いずれも国の突端に近い。以布利 バタク語・・・ 寺田寅彦 「土佐の地名」
・・・とか「種蒔く人」とか、赤い旗の表紙の雑誌が五高の連中から流れこんでくると、小野のところには「自由」という黒い旗の表紙が流れこんできた。三吉はどっちも読んだが、よくはわからなかった。わかるのは小野の性格の厭なところが、まるでそこだけつつきださ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永劫を極めて尽きざるを、渦捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行くわれの果は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・白き腕のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖は、胸を過ぎてより豊かなる襞を描がいて、裾は強けれども剛からざる線を三筋ほど床の上まで・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉れ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。「うけてか」と片頬に笑める様は、谷間の姫百合に朝日影さして、しげき露の痕なく晞けるが如し。「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身と残す。試合果てて再び・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・すると虹霓を粉にして振り蒔くように、眼の前が五色の斑点でちらちらする。これは駄目だと眼を開くとまたランプの影が気になる。仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとして夜の明けるのを待とうと決心した。 横を向いてふと目に入ったの・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・左右に振り蒔く粟の珠も非常に軽そうだ。文鳥は身を逆さまにしないばかりに尖った嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨くらんだ首を惜気もなく右左へ振る。籠の底に飛び散る粟の数は幾粒だか分らない。それでも餌壺だけは寂然として静かである。重いものである・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫