・・・「まさかほんとうに飛び下りはしまいな?」 からかうようにこういったのは、木村という電気会社の技師長だった。「冗談いっちゃいけない。哲学は哲学、人生は人生さ。――所がそんな事を考えている内に、三度目になったと思い給え。その時ふと気・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」 顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言であった。「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧でしたな。」「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 兄はまさかそんな話の仲間にもなれないだろう、むずかしい顔をしている。政さんは兄の顔に気がついて、言いだした話を引っ込ませかける。突然囲炉裏ばたの障子があいて母が顔を出した。「満蔵」「はあ」「お前、今おとよさんの事を言ったね・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・それでも、かの女は行ってしまったが、まさかそのまま来ないことはあるまいと思ったから、独りで酌をしながら待っていた。はたして銚子を持ってすぐ再びやって来た。向うがつんとしているので、今度は僕から物を言いたくなった。「どうだい、僕もまた一つ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と、勇ちゃんは思ったが、まさかこんな汚らしい家ではあるまいというような気もして、その前までいってみると、木田の姿が、すぐ目にはいったのです。「勇ちゃん、裏の方へおまわりよ。」 木田は、喜んでたずねてきてくれた友だちを迎えました。みか・・・ 小川未明 「すいれんは咲いたが」
・・・たかが屋根代の六銭にしても、まさか穿懸けの日和下駄が用立とうとは思いも懸けなかったが、私はそれでホッと安心してじき睡ついた。三 翌朝私が目を覚した時には、周囲の者はいずれももう出払っていたが、私のほかに今一人、向うの部屋で襤・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 迷惑に思ったが、まさか断るわけにはいかなかった。 並んで歩きだすと、女は、あの男をどう思うかといきなり訊ねた。「どう思うって、べつに……。そんなことは……」 答えようもなかったし、また、答えたくもなかった。自分の恋人や、夫・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たような訳ですからな、この上は一歩も仮借する段ではありません。如何なる処分を受けても苦しくないと云う貴方の証・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが草の葉などに染まっていた。試しに杖をあげて見るとささくれまでがはっきりと写った。 この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかをことにしばしば歩い・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・記憶のいい上田も小首を傾けて、「そうサ、何を読んでいたかしらん、まさかまるきり遊んでもいなかったろうが」と考えていましたが、「机に向いていた事はよく見たが、何を専門にやっていたか、どうも思いつかれぬ、窪田君、覚えているかい」と問われ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫