・・・、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかな・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わ・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。少女は、きつい顔をしていた。一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上・・・ 太宰治 「美少女」
・・・を繰返しては湯気の立つ馬をまじまじ眺めていた。 ウワルプルギスナハトには思ったような凄味はなかった。しかし思わない凄味がどこかにあった。お化けは居ないがヘクセンやエルフェンは居そうな気がした。ドクトル、ベエアマンはここで花崗岩の破れ目の・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・おそらく生まれて始めて汽船というものに出会って、そうしてその上にうごめく人影を奇妙な鳥類だとでも思ってまじまじとながめているのであろう。甲板の手すりにもたれて銃口をそろえた船員の群れがいる。「まだ打っちゃいけない。」映画監督のシュネイデロフ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・ 月寒の牧場へ行ったら、羊がみんな此方を向いて珍しそうにまじまじと人の顔を見た。羊は朝から晩まで草を食うことより外に用がないように見える。草はいくら食ってもとても食い切れそうもないほど青々と繁茂しているのである。食うことだけの世界では羊・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・梟が撞木に止まってまじまじ尤もらしい顔をしていたこともあった。しかし小鳥屋専門の店ではなかったような気がする。 その×は色の白い女のように優しい子であったが、それが自分に対して特別に優し味と柔らか味のある一風変った友達として接近していた・・・ 寺田寅彦 「鷹を貰い損なった話」
・・・ 善吉は一層気が忙しくなッて、寝たくはあり、妙な心持はする、機会を失なッて、まじまじと吉里の寝姿を眺めていた。 朝の寒さはひとしおである。西向きの吉里が室の寒さは耐えられぬほどである。吉里は二ツ三ツ続けて嚏をした。「風を引くよ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 恭二の顔をまじまじと見ながら、「貴方も、この様な足らん女子に病んで居られて、さぞ辛気臭う、おまっしゃろが、 どうぞ、たのんますさかい、優しゅうしてやって下さい。 私が目でも見えてどしどし稼げたら、何ぞの事も出来るやろが・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・今まじまじと目の前に表れ出た頬のない美くしさ、冷やかさを持って居る死は私の心にまた謎の種をおろして行く。今まで仕様事なしに私の貧しい知識の知れる限りで死の事を考えて居た心に又一つ新らしい考える気持を落して行く。 死に対する新たなるしかも・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫