・・・退屈で困りまする。と布袋殿は言葉を残しぬ。ぜひ私の方へも、と辰弥も挨拶に後れず軽く腰を屈めつ。 かくして辰弥は布袋の名の三好善平なることを知りぬ。娘は末の子の光代とて、秘蔵のものなる由も事のついでに知りぬ。三好とは聞き及びたる資産家なり・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還さないで膝の上に抱き上げたり、頸にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬を無理に私の顔に押しつけたり、いろい・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・で、我はそういう場合へ行ったことがなくて、ただ話のみを聞いただけでは、それらの人の心の中がどんなものであったろうかということは、先ず殆ど想像出来ぬのでありまするが、そのウィンパーの記したものによりますると、その時夕方六時頃です、ペーテル一族・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・金と花火は飛出す時光る、花火のように美しい勢の好い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣にこにことして投出す、受取る方も、ハッ五万円、先ずこれ位のものをお納めして置きますれば私も鼻が高うございますると欣にこにこして受取る。悪い心持の・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・その時老人の言葉に、菫のことをば太郎坊次郎坊といいまするから、この同じような菫の絵の大小二ツの猪口の、大きい方を太郎坊、小さい方を次郎坊などと呼んでおりましたが、一ツ離して献げるのも異なものですから二つともに進じましょう、というのでついに二・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ただしかように申しますと、非常に広い問題になりまして、どうも一席の御話には尽す事が出来ないのでござりまする。馬琴が用いましたその小説中の言語と、当時の実際の言語とも一つの重要な関係点でありますれば、馬琴の描きました小説中の風俗習慣や儀式作法・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・のほどもなくさらさらと衣の音、それ来たと俊雄はまた顫えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「伝統、ということになりますると、よほどのあやまちも、気がつかずに見逃してしまうが、問題は、微細なところに沢山あるのです。もっと自由な立場で、極く初等的な万人むきの解析概論の出ることを、切に、希望している次第であります。」めちゃめちゃである・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・決して、こだわるわけではありませぬが、作陽誌によりますると、そのハンザキの大きさが三丈もあったというのですが、それは学者たちにとっては疑わしい事かも知れませんが、どうも私は人の話を疑う奴はまことにきらいで、三丈と言ったら三丈と信じたらいいで・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・去年の夏みたいに、やっぱり二、三時間で、おいとまするような事になるんじゃないかな。北さんのお話では、それがいいという事でした。僕は、なんでも、北さんの言うとおりにしようと思っているのですから。」「でも、こんなにお母さんが悪いのに、見捨て・・・ 太宰治 「故郷」
出典:青空文庫