・・・けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。 とうとう初夜の鐘が鳴った。それから二更の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去ら・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待った瞳だった。「あなた!」 常子はこう叫びながら、夫の胸へ縋ろうとした。けれども一足出すが早いか、熱鉄か何かを踏んだようにたちまちまた後ろへ飛びすさった。夫は破れたズボンの下に毛だらけの馬の脚を露・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・彼れは毎日毎日小屋の前に仁王立になって、五カ月間積り重なった雪の解けたために膿み放題に膿んだ畑から、恵深い日の光に照らされて水蒸気の濛々と立上る様を待ち遠しげに眺めやった。マッカリヌプリは毎日紫色に暖かく霞んだ。林の中の雪の叢消えの間には福・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ そうしたらどうでしょう、先ず第一に待ち切っていたようにジムが飛んで来て、僕の手を握ってくれました。そして昨日のことなんか忘れてしまったように、親切に僕の手をひいてどぎまぎしている僕を先生の部屋に連れて行くのです。僕はなんだか訳がわかり・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・明くるを待ちて、相見て口を合わするに、三人符を同じゅうしていささかも異なる事なし。ここにおいて青くなりて大に懼れ、斉しく牲を備えて、廟に詣って、罪を謝し、哀を乞う。 その夜また倶に夢む。この度や蒋侯神、白銀の甲冑し、雪のごとき白馬に跨り・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄があった」 僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆の花・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ これで国府津へは三度目だが、なかなかいいところだとか、僕が避暑がてら勉強するには持って来いの場所だとか、遊んでいながら出来る仕事は結構で羨ましいとか、お袋の話はなかなかまわりくどくって僕の待ち設けている要領にちょっとはいりかねた。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この夜、猿芝居が終って賓客が散じた頃、鹿鳴館の方角から若い美くしい洋装の貴夫人が帽子も被らず靴も穿かず、髪をオドロと振乱した半狂乱の体でバタバタと駈けて来て、折から日比谷の原の端れに客待ちしていた俥を呼留め、飛乗りざまに幌を深く卸させて神田・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・青年は、待ちに待った船が、遠くから持ってきてくれた箱のことを思い出しました。「あの箱の中には、なにがはいっていたろう?」 夜の明けるのを待ちました。やがて、あらしの名残をとめた、鉛色の朝となりました。浜辺にいってみると、すでに箱は波・・・ 小川未明 「希望」
・・・「ねえ君、二三日待ちなせえよ。きっと送るから。」と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそのことを誓った。 汽船は出た。甲板に立った銭占屋の姿がだんだん遠ざかって行くのを見送りながら、私は今朝その話の中に引いた唄の文句を思いだして、「・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫