・・・しかしこれはまたいつか報告する機会を待つことにしましょう。ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。お松は何でも「三太」と云う烏猫を飼っていました。ある日その「三太」が「青ペン」のお上の一張羅の上へ・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 監督は矢部の出迎えに出かけて留守だったが、父の膝許には、もうたくさんの帳簿や書類が雑然と開きならべられてあった。 待つほどもなく矢部という人が事務所に着いた。彼ははじめてその人を見たのだった。想像していたのとはまるで違って、四十恰・・・ 有島武郎 「親子」
・・・たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。 この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だとい・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐りたかった。」「まあ、貴下、大抵じゃなかったのねえ。」 フトその時、火鉢のふ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・昨日政夫さんが来るのは解りきって居るのに、姉さんがいろんなことを云って、一昨日お民さんを市川へ帰したんですよ。待つ人があるだっぺとか逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当こすりを云ってお民さんを泣かせたりしてネ、お母さんにも何でもいろいろなこと・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・僕が畜生とまで嗅ぎつけた女にそんな優しみがあるのかと、上手下手を見分ける余裕もなく、僕はただぼんやり見惚れているうちに、「待つウ身にイ、つらーアき、置きイごたーアつ」も通り抜けて、終りになり、踊り手は畳に手を突いて、しとやかにお辞儀をし・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・考証家の極めて少ない、また考証の極めて幼稚な日本の学界は鴎外の巨腕に待つものが頗る多かった。鴎外が董督した改訂六国史の大成を見ないで逝ったのは鴎外の心残りでもあったろうし、また学術上の恨事でもあった。 鴎外が博物館総長の椅子に坐るや・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれどもまた多少一般の人生問題を論究せざるにあらず、これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし、読者の寛容を待つ。 明治三十年六月二十日東京青山において・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・三年たてば、恋しい母や父が、やってくるといったけれど、彼女はどうしても、その日まで待つことはできませんでした。「どうかして、生まれた家へ帰りたいもんだ。」と、彼女は思いました。 しかし、道は、遠く、ひとり歩いたのでは、方角すらも、よ・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・夜は十二時一時と次第に深けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内の者二人と雇い婆と、合わせて七人ズラリ枕元を囲んで、ただただ息を引き取るのを待つのであった。力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫