・・・こう敷石があって、まん中に何だか梧桐みたいな木が立っているんです。両側はずっと西洋館でしてね。ただ、写真が古いせいか、一体に夕方みたいにうすぼんやり黄いろくって、その家や木がみんな妙にぶるぶるふるえていて――そりゃさびしい景色なんです。そこ・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・僕はこう云う景色を見ながら、ふと僕等人間を憐みたい気もちを感じました。…… M子さん親子はS君と一しょに二三日前に東京へ帰りました。K君は何でもこの温泉宿へ妹さんの来るのを待ち合せた上、帰り仕度をするとか云うことです。僕はK君と二人だけ・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・私自身が嘘のかたまりみたいなものです。けれどもそうでありたくない気持ちがやたらに私を攻め立てるのです。だから自分の信じている人や親しい人が私の前で平気で嘘をやってるのを見ると、思わず知らず自分のことは棚に上げて腹が立ってくるのです。これもし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・お母さんの顔が真蒼で、手がぶるぶる震えて、八っちゃんの顔が真紅で、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人ぼっちになってしまったようで、我慢のしようもなく涙が出た。 お母さんは僕がべそをかき始めたのに気もつかないで、夢中になっ・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・あれだけでも僕みたいな者にゃ一種の重荷だよ。それよりは何処でも構わず腹の空いた時に飛び込んで、自分の好きな物を食った方が可じゃないか。何でも好きなものが食えるんだからなあ。初めの間は腹のへって来るのが楽みで、一日に五回ずつ食ってやった。出掛・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 欠火鉢からもぎ取って、その散髪みたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。 ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃え・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・……この辺を歩行く門附みたいなもの、とまた訊けば、父親がついぞ見掛けた事はない。娘が跣足でいました、と言ったので、旅から紛込んだものか、それも分らぬ。 と、言ううちにも、紫玉はちょいちょい眉を顰めた。抜いて持った釵、鬢摺れに髪に返そうと・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・昔から、その島へいってみたいばかりに、神に願をかけて貝となったり、三年の間海の中で修業をして、さらに白鳥となったり、それまでにして、この島に憧れて飛んでゆくのであった。白い鳥は、その島にゆくと、花の咲いている野原の上で舞うのである。またある・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・私みたいなものが、あの美しい空へいって、すんでいるところがありましょうか?」といって、たずねました。 雲は、にこやかに笑いました。「それには、いい考えがあることです。はやくなさらないとだめですから……。」といって、雲は、まりを急きた・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
・・・そら、駱駝の背中みたいなあの向う、あそこへ行きねえ。」と険突を食わされた。 駱駝の背中と言ったのは壁ぎわの寝床で、夫婦者と見えて、一枚の布団の中から薄禿の頭と櫛巻の頭とが出ている。私はその横へ行って、そこでもまたぼんやり立っていると、櫛・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫