・・・ そう言いながら、男はどぶんと浸ったが、いきなりでかい声で、「あ、こら水みたいや。無茶しよる。水風呂やがな。こんなとこイはいって寒雀みたいに行水してたら、風邪ひいてしまうわ」そして私の方へ「あんた、よう辛抱したはりまんな。えらい人や・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 汲み取った下肥えの代りに……とは、うっかり口がすべった洒落みたいなものですが、ここらが親譲りというのでしょう。父は疑っていたかもしれぬが、私はやはり落語家の父の子だった。自慢にはならぬが、話が上手で、というよりお喋りで、自分でもいや気・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・誰が禅みたいなあほらしいものに引かかって、自分の生きる死ぬるの大事なことを忘れる奴があるか!」と、私はムッとして声を励まして言ったが、多少図星を指された気がした。「それではとにかく行李を詰めましょうか」と、弟はおとなしく起って、次ぎの室・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレストランみたいなところで、橋の上からだとか向こう岸からだとか見ている人があって飲んでいるのならどんなに楽しいでしょう。『いかにあわれと思うらん』僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつも・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・「日本人って奴は、まるで狂犬みたいだ。――手あたり次第にかみつかなくちゃおかないんだ。」ペーチャが云った。「まだポンポン打ちよるぞ!」 ロシア人は、戦争をする意志を失っていた。彼等は銃をさげて、危険のない方へ逃げていた。 弾・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合のことの好きな磊落な人が、ボラ釣は豪爽で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういう・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・――吉本さんや平賀さんまで遊んでくれなかったら、学校はじごくみたいなものです。 先生。私はどんなに戦争のお金を出したいと思ってるか分りません。しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロ・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・女にもしてみたいほどの色の白い児で、優しい眉、すこし開いた脣、短いうぶ毛のままの髪、子供らしいおでこ――すべて愛らしかった。何となく袖子にむかってすねているような無邪気さは、一層その子供らしい様子を愛らしく見せた。こんないじらしさは、あの生・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・ 今んとこはまったくやせ犬の見本みたいだが、二週間もたてばむくむくこえていい犬になる。おい、おれんとこにもいい犬がいたんだよ。そいつがにげ出して殺されたんだ。おまいは、かわりに、おれんとこの子になるか。なる? おお、よしよし。」 肉屋が・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・「きょうは、ちょっと、ふうがわりの主人公を出してみたいのだが。」「老人がいいな。」次女は、卓の上に頬杖ついて、それも人さし指一本で片頬を支えているという、どうにも気障な形で、「ゆうべ私は、つくづく考えてみたのだけれど、」なに、たったいま・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫