・・・急に胸がむかむかとして来ずにはいられなかった。その様子がかの女には見えたかも知れないが、僕はこれを顔にも見せないつもりで、いそいで衣服をつけてそこを出た。しまったと後悔したのは、出口の障子をつい烈しくしめたことだ。 きょうは早く行って、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 私はむかむかッとして来た、筆蹟くらいで、人間の値打ちがわかってたまるものか、近頃の女はなぜこんな風に、なにかと言えば教養だとか、筆蹟だとか、知性だとか、月並みな符号を使って人を批評したがるのかと、うんざりした。「奥さんは字がお上手・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・女学生は、女房のスカアトの裾から露出する骨張った脚を見ながら、次第にむかむか嫌悪が生じる。「あさましい。理性を失った女性の姿は、どうしてこんなに動物の臭いがするのだろう。汚い。下等だ。毛虫だ。助けまい。あの男を撃つより先に、やはりこの女と、・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・それからむかむか不愉快になった。敷金のこともあるし、それよりもなによりも、なんだか、してやられたようないらだたしさに堪えられなくなったのである。僕は式台にしゃがんで、その恥かしく大きな熨斗袋をつまみあげ、なかを覗いてみたのである。お蕎麦屋の・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・どうにも、むかむかするのである。私が、おとなしく昼寝をしていて、なんにもしないのに、蜂が一匹、飛んで来て、私の頬を刺して、行った。そんな感じだ。全くの災難である。東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・三郎は狆の甘ったれた精神にむかむか憎悪を覚えたのである。騒ぐな、騒ぐな、と息をつめたような声で言ってから、庭へ飛び降り小石を拾い、はっしとぶっつけた。狆の頭部に命中した。きゃんと一声するどく鳴いてから狆の白い小さいからだがくるくると独楽のよ・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・赤がいつものようにぴしゃぴしゃと飯へかけてやった味噌汁を甞める音が耳にはいったり、床の下でくんくんと鼻を鳴らして居るように思われたり、それにむかむかと迫って来る暑さに攻められたりして彼は只管懊悩した。遠くの方で犬の吠えるのが聞える。それがひ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫